連載ナントカ

連載その一《酒》


《酒》第一発

彼があまりにも旨そうにビールを飲むので、八王子東高校の制服を着たあたしは浅川の土手を駆け上がる。
紺色のタイツに草の実がポロポロ付着する。あたしはそれをひとつひとつ抜き取ってはビールの空き缶の縁に丁寧に円く並べる。
涙形の深い暗闇の中を覗いてみる。どこまでも続く紫がかった暗闇。あたしの目玉はとうに吸い込まれてしまって、いつのまにか上半身は全て空き缶の中だ。 逆さまになって空き缶から突き出したあたしの下半身。茶色のプリーツスカートは重力に従って空き缶に被さる。
黒い蟻が一列になってせわしなく這い上がってくる。あたしの尻を伝う。腿を伝う。膝の裏を伝い、爪先まで到達する。今度は下る。上りと同じ速さで、内側をなぞる。黒く細い線の散歩。あたしを一周して蟻達は、とうとう両脚のあいだで止まる。
そこに集合して黒い団子になる。せわしなく動く。
真っ直ぐ空に向って伸びたあたしの脚のあいだが破れていく。
80デニールの紺色のタイツがゆっくりと伝線していく。ひどい音がする。
先刻までこの河原にいた男はどこに行ってしまったのか。あんなに旨そうにビールを飲んでいた。あたしはビールの味を知らないというのに。
あたしの父はサラリーマンではないのでビールを飲んで帰宅しない。分倍河原駅の改札を出てすぐに、<晩酌セット980円>のチラシを発見した。 猫が鳴くと思ったのに鳴かなかった。後ろの右足を一歩踏み出して止まっていた。彫像の様な猫の後姿に何か伝えようとする。あたしは諦める。
<ビール、または日本酒一合とお刺身にお好きなおつまみが一品付きます。>
父はどこにもいなかった。
けれど家の暗い廊下にはビールの空き缶が転がっている。家族の誰もそのことに気付かない。
洗濯物を洗濯機から物干し場に移動させる母のスリッパに蹴られては壁に当たるまでからからと転がる。
家は少し傾いているのか、翌日目が覚めると空き缶はまた同じ位置に戻っている。
いや、あたしの家は少しも傾いていない。ビー玉を百個ぶちまけたって大人しくじっとしている。床にぴっとり張り付いて行儀よく並ぶ。
あたしは赤に白線の入ったビー玉をひとつ拾い上げて見つめる。蛍光灯に照らして確かめる。数分間西日にかざしてもみる。少し温まったそれを便器の中にぽちゃりと入れる。
ブルーレットの青色に染まって、ビー玉は見えなくなる。
ブルーレット水はビー玉を飲み込み泡立つ。
盛り上がって便器から溢れる。一畳足らずの便所の床を、白っぽい泡が侵蝕する。キティちゃんのスリッパが埋る。
あたしは泡に包まれて、溺れる準備をする。
遠くからテレビの音が小さく聞こえる。

                                2005.3  

《酒》第二発

火のついた煙草も蛇の型のブローチも全てあたしのために在った。
「あたし昨日からずっと眠ってんのよ」と女は言った。
女は男の前で裸になるときだけ起きているのだという。
黒猫があたしと女の白い素足にじゃれついている。<アルコール>という名のその猫は赤いリボンをしている。 女は胸の開いた真っ赤なネグリジェを着てグラスの縁に噛み付いている。少し泣いてる様な目をしてあたしの横にいる。
いつものことだ。これが女の日常だし、誰にも邪魔出来ないと思う。あたしは割りと重い煙草を吸うけど女はもっと 重い煙草を吸う。あたしはどちらかというと美人な方だが女はぞっとするような美人だ。全てそれは事実だし、 誰が嘘だと言えるだろうか。
あたしは女の部屋を出て暗い道を歩く。
歩く時の足の仕組みを考えながら歩こうとして、やっぱり失敗する。横断歩道を渡ろうとすると手前で信号が必ず 赤になる。横断歩道はいくつもある。こんな真夜中に前から自転車が来る。左によけると自転車も同じ側によける。 「すみません」と言う。
あたしは歩く。
下北沢の六畳間には「いつ開けてもいいよ」と赤ワインのボトルが置いてある。
あたしは毎日、赤ワインがあることを確認する。朝起きて、「あった」と思う。帰宅して部屋の電気を付けて、 「まだあった」と思う。手で持ち上げてみようとして、やめる。テレビをつけて見ないふりをする。 あの女を思い出す。おなかが空いたと思う。何も入っていないのを知りながら冷蔵庫を開ける。ソファに戻って テレビの方を見る。煙草に火をつけようとしてやめる。
あたしはやっぱり部屋を出ようと思う。
服を着替えようとクローゼットの戸を開ける。真っ赤なネグリジェが一番に目に入る。

ワインを飲むにも入れ物がない。女は「ひとつあげるわ」と言う。もらうくらいならいいのを買う、と言うと 「あたしの持ってるのよりいいのはない」

女の部屋の扉を開けるとあの猫が丸まって死んでいた。きっとあたしが殺した。女がいつもの場所でいつもの 格好でワインを飲んでいる。何か話し掛けようとしたけど、やめてと言われた気がしてあたしは黙って座る。 「ここは赤い」と思う。何もかもが赤いのに、何が赤いのかは思い出せなかった。今も、よく見えない。 女の横顔を見るとやっぱり泣いてる。泣いてる様な目をしている。話し掛けないでと全身で言いながら目だけは 淋しそうに濡れている。女の睫毛は長い。唇は赤い。爪も赤い。
猫の死臭がする。

猫の名前は<ケムリ>だったかもしれない。

薔薇の模様の化粧箱も、黒いレースのガーターベルトも、全てあたしのために在った。
あたしは何も知らないふりをしながら全部知っていて、本当は六畳間の赤ワインが消えてしまえばいいのに と思う。

                                               2005.6  

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