嬉しい言葉を二人の友人からいただいたので、皆であ励みにしようとここに転載します。
お一人はまだ正式にお許しを貰ってないので匿名で。(20年来ずっと夜の樹の見守ってくれている、かつてパンフレットにも言葉を貰った詩人・プロの編集者です。これだけ書いたらバレるか)
もう一人は今年52年ぶりに再会した小学校の同級生で作家の岩下寿之君。岩下君の劇評は長文なので(2)としてアップします。そして鋭い指摘もあるので、みんなでこの場で討論しましょう。夜の樹専用の掲示板でとも思ったけれど、夜の樹以外、それから岩下君(出来たら匿名氏にも!)にも書き込んで貰いたいので、オープンのこの場にしました。では匿名氏からいただいた葉書より
「この度はお招きありがとうございました。今回の御作、拝見できて、良かったと思っております。これまでの同系統の集大成というか、完成度高く、これで極まったのではないか? と拝察致しました。いまのアップ・ツーデイト(ア・ラ・モード)と離れたところで、つきつめられた世界。ヨーロッパのそれも小劇場展開のロシア・東欧でなくフランスなどの小空間で上演なさったら熱い支持を得るものと思います。
私はシェイクスピアが好きなのですが和田さんの普遍性は沙翁に通ってゆくものがと拝察しました。」
岩下氏は「大連だより」「大連・桃源台の家」「大連を遠く離れて」の三部作の自伝を出版したノンフィクション作家です。詳しい紹介は後にして、貰った手紙を私信の部分を省略して二回に分けて紹介します。
「(5行略)初めて「夜の樹」の公演を見ましたが、初めに台本(戯曲集のこと=註・和田)にせっしていたせいか、すんなりと舞台の雰囲気に入っていけました。アンケートの回答代わりに、私なりの感想を二、三記しておきます。
”反演劇”ーどこまで従来の演劇概念とそのスタイルを打ち壊せるかが、おそらく「夜の樹」の旗上げ理念だと思います。そして頂戴した三冊の台本を拝読して、台詞のみごとさと”ト書き”の緻密さで、その意図は十分表されていると思いました。今回は、その頭の中の満足感を舞台で生身に味わえるかを大きな楽しみにして参りました。結果はほぼ予想通りで、みごとな出来だと感心しました。
まず、やはり台詞の美しさに引き込まれました。これは台本集を読んだ時にすでに驚愕したことですが、知から愚まで、聖から俗まで、古今東西にわたる文化の集積が巧みに切り取られ、張り合わされて、饒舌の内に一つのすっきりした美学を打ち立てていることに感心しました。台詞だけでも十分読ませる劇になっています。この点で、貴兄の博識ぶりに感服しました。と言うよりその知的好奇心とそれを満たすための日頃の精進ぶりと言ったらいいでしょうか。
次に、ユーモアとウィットです。”反演劇”は必然的に内側にとぐろを巻いていく自己破壊性を避けられませんが、それが観客に”見てもらう”ためには、ある種のおもしろさが必要です。それはストーリーや動作によるおもしろさではなく、言葉が紡ぎ出すレトリックによもものです。この点に、この種の芝居の持つ楽しさがありのですが、同時に難解さをも生む原因の一つです。観客には笑いを許さない荘重な観念劇に映って、笑うことを憚るような”硬さ”が場内を支配していました。随所に思わず笑い出したくなるようなおもしろさがあったのに、見ている人たちは妙に深刻ぶっていましたね。これはドラマツルギーの問題というより観客の”慣れ”の問題かもしれませんが。
もう一つ、これは人間の”存在”にかかわることですが、周知の如く近代は「我思う、故に我在り」のデカルトから出発しました。そしてこれをどう乗り越えて人間存在の”実存”を取り戻すかが現代の思想界の一大テーマでした。が、ポストモダンも含めて、私の考えではいまだデカルトを超えられないでいます。今回の「螺旋袋とじ」でも、唐の坊さんの禅問答に対して乞食坊主の言う「揺れているのはそれを見ている人間の心だ」という台詞が、それをみごとに証明しています。おそらく、思考し行為するおのれ自身に対する懐疑から貴兄の作劇は出発しているはずなのに(”離人症”はこの命題に格好の素材と設定を与えてくれます)、懐疑の行き着く果てが見えて来ないところに、むしろこのドラマの奥深いテーマがあると私は思いました。
これを徹底するとニヒリズムに陥ります。そしてニヒリズムが一つの”快楽”に転換できれば認識のコペルニクス的転回が可能になると思います。これは私自身が今陥っているアンビバレンスな悩みでもありますが、これを解決するには知より美、つまり感性だろうと見当をつけています。このことは小説の世界でなら可能性がありそうですが、芝居では至難の業かと思います。が、追求すべき課題であるような気がします。
「ついでに今度の公演を見終わって、やや意外に感じた点を一つ二つ。
まず劇としての構成にかかわる問題ですが、第六場の「キャベツ畑・・・」の再登場ですが、それまでのきりりと引き締まったドラマを叙情化してしまい、私にはちょっと不満でした。「キャベツ畑・・・」に対する貴兄の思い入れを感じて、おそらくこれが貴兄の原点であることを意識させられ、これはこれで「和田周」を論じる場合の重要なモチーフになりますが、他の作品に混入させると「コワイことになる。原点ってゼロだから」(パンフレットの言葉)という陥穽にハマル危険もあるのではないでしょうか。
もう一つ、”離人症”に関することです。主人公なり登場人物を”病者”と規定することの危険性について。フロイト以来、人間存在の奥の隠れたさまざまな心的症状が著名な学者たちによって取り沙汰されてきましたが、これらを一つの病的症状として規定してしまうと人間が固定化され、普遍性を失うような気がします。むしろ我々現代人は皆”病者”であるという前提で出発し、劇中の人物だけを特殊化しないで、普遍化する方が劇の広がりが増すと思います。つまり病名や病者を出さず、現代人は皆”病んでいる”という実感を観客に抱かせることが大事だと思います。”規定する”のは医者の役割で、芸術家は”提示する”ことが仕事だと思います。これは私の信じるところの「文学は問題の解決ではなく、その提示に役割がある」というテーゼとも結び付くことがらです。”解決”は哲学者の任務です。
いずれにしても、今回の公演を見て大きな刺激を受けました。文学とは違った芝居独自の魅力というものに打たれました。
例えば第三幕「終の棲家」における”方丈の庵”(「方丈記」がうまく使われています。同時に一茶の名句「これがまあ終の棲家か雪五尺」が)の場面、また次の第四場「悪い夢」における道行の場面(近松浄瑠璃の心中行が巧みに生かされており、鮮烈な印象を刻んでいる)。私にとっては、この三場・四場だけで十分”芝居を見た”という気にさせられました。それほどこの場面は印象的で、これはひょっとして芝居の美学に通じ、観念と感性の融合した成功例と言えるかもしれません。
(以下・8行略)」
だいぶ長い文章でした。岩下君にお礼を申し上げます。
さて、夜の樹の全メンバーの皆さん! 後半の岩下君の批評に出演者としてきっちり答えよう。ぼくも大切に答えたいと思っています。岩下氏にもさらに僕たちの返信に答えてここに書き込んでもらうように頼みます。
匿名様、岩下様、とても励みになるお言葉本当に、本当にありがとうございました! 私は、男一をやらせて頂いた大谷草平と申します。和田さんの提案「きっちり答えましょう」を受けて書き込みをしたいと思います。(あ〜なんか緊張するな〜)答えというより、私の客観的(出演者が出来るの?)感想を。
「螺旋〜」公演後、「いや〜芝居終わった!完全燃焼!(体育会系的?)」とはほど遠い思いが、私の中でくすぶり続けていました。「稽古時間があと1ヶ月、イヤあと1週間あれば”もう少し先”に行けるのではないか!」という思いがありました。(失礼な話しですが)これは、和田さんの「何が出来なかったか」につながる事だと思います。
その一つに岩下様のご指摘にもありました「キャベツ畑〜」潜入後の叙情化についてです。これを語るには、前の5場がどうだったのか?から話させて頂きます。
5場の役者集団が、「芝居を止め、これから先どうする?」という議論を始める場面です。ココで役者集団達は(イコール夜の樹のメンバーでもある)、内容もさることながら、その場に流れている時間や空気みたいなものを”ダイナミックにうねらせ”ながら、場を進めて行きたいという思いがあったにもかかわらず、その事が実現出来たのか?
ここでお客様を置き去りにしてきてしまったのではないか? もしくは、迷子のまま6場へと連れて行ってしまったのではないか? 男一の芝居で皆の中にスコンと「魂振り」が落ちてきたのか? 男一は台本(ホン)に寄りかかりすぎていたのではないか? 5場で落ちていない限り、6場が面白くなるなは難しいのでは・・・。6場の「キャベツ〜」以降を、幾ら叙情的になっても最終的にそれを、星一徹ヨロシクお膳をひっくり返す様に仕掛けとして、最後にスコンと返す事が出来たのであればそれはそれで、面白いのではないかという思いがありました。しかし、そのひっくり返しが出来なかったのではないかと、チャンスはあったのに、逃してしまっていたのではと考えるのですが。
「きっちり答え」というよりは・・・自虐的な私の公演後の感想になってしまいましたが・・・。
夜の樹のみなさんはどうお考えでしょうか?
余談ですが、叙情的な芝居は役者にとって「蜜の味」です。実感を持つことができ、ないと少しばかり寂しく感じるのです。あればあったで「濡れてイヤだな〜」と思うのでありますが・・・。観ていただく方も、入りやすい入り口になったりもしますし。
そこでいつでも「・・・嘘だよ」(「蠅取り紙」のセリフより)と言いたいな〜
私の大学の友人たちも、批評の精神はまるでなくても「前半は面白かったけど後半は難しかったヨ;」という感想がほとんどでした。6場から(5場からでしょうか)は、見る側もやる側も難しいシーンだったのでしょう。
これはあくまで私個人の意見ですが・・・『螺旋袋とじ』の1〜4場は完全なる刺身のつまとして存在し、『キャベツ畑〜』からが本題だった。しかしわたし達は初演の『キャベツ畑〜』を大勢で演じるという形を丁寧につくることだけに明け暮れて、『螺旋袋とじ』用の新しい『キャベツ畑〜』を舞台に乗せることができなかったのではないでしょうか。叙情化どころではなかったはずなのです。物語を語るのではなく、和田さんのキャベツ畑への強い思い入れすらも裏切り、書き手の和田さんの影が見えないくらいわたしたち11人の俳優が一人一人「生き生きとした演技」を手に入れて舞台をはみだし観客を巻き込み一夜の夢を作らなければならなかった。
それには前半のように色をつければいいわけでもない、観客が喜びやすいパフォーマンスを取り入れてもいけない。どこまでもコトバで見せなければならないと思います。多分それが出来た演劇は今までないけど・・・だからこそやるんだし、ほんの少しでも媚やサービスに逃げたくない。それが6場で出来れば・・新鮮に「きりりと引き締まったドラマ」以上のものが作れたのではないか、と思います。
同じようなことが“病者”についてにも当てはまります。
現代人は皆病んでいるということ、「文学(芸術)は問題の解決ではなく、その提示に役割がある」ということを和田さんは多分、とうにやり尽くしてしまったのではないでしょうか。今回作ろうとした演劇は、それすらも乗り越えた、別のところにあるはずです。
大谷と姫ありがとう。議論を広げるためにも僕が岩下氏に私信として送った手紙をアップします。どうか皆でワイワイ話をひろげていきましょう。
「ありがとう。小学校からの級友にこのように篤く鋭く発表直後の作品を論じてもらって、人生のめぐり合わせに驚き、感激しています。つくづく嬉しいです。
1 コギトの二元論の超克の問題。2 六場が叙情に流れてしまった問題。3 登場人物を離人症と名指す問題。どれもこれも今回の公演の根幹に触れる鋭い指摘です。同窓会の後日にぜひゆっくりと、さらに詳しく話をお聞きしたいと思います。いまは思いついたところを・・・
1 思想史・現代思想の課題の視点から自作を押さえてくれる貴兄の言葉にはしゃいで優等生的な答えで反応し自分達の作業を括(くくる)ることは、現場人間のいはば動物的な勘として躊躇します。変な例えですが、作り手は、素潜りに例えると、海中に潜って潮の渦に揉まれながら無我夢中で「泡を食う」のが大切で、海面に顔を出して上っ面の波の形を眺めたり読んだりはあまりしない方がいいのではないか、と思うのです。でも、いま自分がどんな作業をしているのか、そのおおまかな布置を知りたいのは本音ですし、またそれを知って(教えられて)自分達の作業の舵取りや励みに取り込むのは大切なことだと思います。ぜひ続きを聞かせてください。(僕の雑駁な思いつきとしては、「六祖壇教」の「私の心がはためいているのだ」は、デカルトの二元論の囲い込みを踏み外して、むしろフッサールの「還元」に近い立場のような気がして、嬉しくなって、あそこにパクッタのです。白状すると)
2 今回の一番の反省点です。離人症俳優論の今回の舞台にとって、「魂振り」の劇として、「キャベツ」を俳優集団の僕等全員の劇行為として舞台にのせることはどうしても必要だったのですが、青梅平野の場での女達の台詞、町が光っていたことを告げる男の台詞、妻が許していたと告げる男の台詞、最後の妻の台詞は、絶対に濡れてはいけなかったのです。男の狂気とエゴイズムであの場は終わらなくてはいけなかったのです。情緒やステロタイプのヒューマニスティックな感動ではなく、乾いた、ある種の反倫理というか不条理が浮かび上がって終わる場にしなくてはならなかった。だから貴兄に情緒的と受け取られたことは完全に失敗です。
3 面白い問題です。作家の貴兄と劇作の僕の創造上のエシックス(規範・倫理)に係わる違いの問題だと思うのです。僕等は登場人物を台本の上で「それそのもの」と規定することにけっこう大雑把で破廉恥です。社会主義リアリズム演劇の時代には、資本家や現場監督はステロタイプで、労働者だけが労働者であることを裏切ることでドラマが成立しました。現代の芝居では、すべての登場人物が「それは私ではない」と、その作品の中、舞台の上で、劇作家に規定された己自身をアッケラカンと裏切り続けます。
実に嬉しい交信です。あらためて貴兄のお言葉をお待ちします。(以下5行略)」
今回の芝居を終えて、僕が感じたことがあります。
それは、見ていただいた方々の鋭さに驚かされる機会が多いのです。
こちら側のたくらみや計算を置き去りにして、事の本質にグサリと刺さるお言葉を友人達からも多くいただきました。
そして今回この場で取り上げられているお手紙。
「ここまで見ていただけているんだ・・・」と、嬉しくもあり、怖くもあり、そんなことを思う自分が恥ずかしくもあり・・・。
とにかく、置いていかれるのが自分にならないようにしなければ!と気持ちを引き締めるだけです。
「螺旋〜」の後半部分(キャベツ畑〜)が叙情的になってしまっていた。とのご指摘には僕にも心あたりがあります。
その部分に触れる前に、僕なりの「螺旋袋とじ」という作品の解釈を書きたいと思います。
曖昧な表現からはじまりますが、「螺旋袋とじ」は1〜5場(の前半)を一方、5場の後半(レーニン・・・あたり)を支点、6場をもう一方にした天秤のような構図の芝居で、これがバランスを保つことが出来れば素敵だな。と思っていました。
たとえて言うと、前半の場面は、広大な砂漠に立ち、遠くに旗(到達点)を見つけることができ、そこへ向かうにあたり、どの道のりを歩くべきかを模索しながら日々過ごし、劇場でその旗にたどり着く感覚でつくりだす作品。
後半の場面は、広大な海の上で船に乗り、目が覚めたら見渡すかぎり海・海・海。
船には乗組員が11人乗り、かわるがわる船頭が変わり、風もそのつど変わり、どこへ向かうかはわからず・・。沈没するんじゃないか?との不安と同時に、宝の島にたどり着くのでは?と期待しながら前へ進む感覚でつくりだす作品。
僕の中でのこの2つの感覚は、上も下もなく、横並びに2つを並べて、バランスのとれた天秤のような感じで今回の芝居を舞台の上で作り上げたいと思っていました。
もし、「キャベツ畑〜」を僕が一人でやるとしたら、きっと砂漠に立ってまわりを眺めるでしょうが、せっかく「キャベツ畑〜」を11人の俳優でつくりあげるなら、見渡すかぎり海の上での不安な気持ちのまま舞台にいることではじまる何か?を楽しみにつくりたいと思ったんです。
だから、申し訳ない話ですが、見ている方々を到達点まで連れて行く自信は僕にはほとんどありませんでした。
その代わり、宝島に到達しようとする過程をリアルに生々しく生きることで見ている方々も楽しんでもらえるものになるのではないかな?(宝の島に到着することができずに、沈没したとしても・・)との微かな自信はありました。ベツ畑〜」に関しては、いくつかの場面では、まさに風が舞い旗が翻ることができた実感があり、それはそれで成功していると感じています。
そんなところは見ている方々も楽しめたのでは・・・?
しかし、舞台の上で風を感じることができずに模索する瞬間もありました。その時自分は何をしていたのだろう?と振り返ると、そこにはご指摘のあった「叙情的な感じ」で埋め合わせてしまった覚えが確かにあります。
あと、その自分がつくったか誰かがつくったかの叙情的な風に乗って無意識に進んでしまった覚えもあります。もしこのような要素を取り除いて、荒削りのまま、自分の内側を生々しくさらけ出すことで芝居をつくることができれば、もっとわかりずらく、難しい芝居になる可能性もありますが、同時に、もっともっと面白い芝居ができる可能性も感じてます。
そのためには、客席に座っているお客様をもっと信じなければいけないな。と、「わかりやすくしなければ!」なんて思ってあれこれ埋め合わせてもバレちゃってるんだなぁ。て、恥ずかしながらあらためて感じます。
まだ書きたい点がいくつかありますが、睡魔が襲ってきたので、このへんで・・。
(岩下様、著名様、励みになるお手紙本当にありがとうございました。赤いふんどしを締めておりました古口圭介より。)
今回の私の感想文を読んでいただいて、ありがとうございます。
男一の熱演には、正直、感激しました。決して「不完全燃焼」ではありません。演技力には、ただならぬものを感じました。
私の違和感は、むしろ劇の構成に対してです。ということは、作者の和田くんに向けられたものです。この点は、作者との見解の相違が大きいのかもしれませんが、和田くんも一応は理解してくれたと思っています。
四場まで象徴的に進んできた芝居が、五場に来て突然説明調になって、おもしろさが切断されてしまいました。理屈に走ってしまいました。そのあと「キャベツ畑」の六場が来るわけですが、五場から六場への繋がりは必然性があり、一貫したテーマを「観念」から「具体」へと展開させています。しかし、四場と五場が説明抜きでメタファとしての象徴性でおもしろさを発揮しているのに対して、五場・六場は絶叫調で俳優各自が自分の思いを訴えているだけです。観客としては、ちょっとしらけてしまう感じです。
私の考えでは、「キャベツ畑」は作者にとって原点となる重要なモチーフですが、それ自体で一つの完結したドラマであって、あとの作品に引きずらない方がいいと思います。テーマそのものは引きずらざるを得ないのですが、構成上はきっぱり縁を切る方が、芝居に新たな地平と可能性を見せてくれる気がします。
このあたりはドラマツルギーの問題で、和田くんにはすでに伝えてあります。大谷さんに言ううのは筋違いかもしれませんが、演技の上でも、と言うよりは協同で芝居を作っていく役者の一人として、あなたにとって何か参考になればと期待しております。
「演技の上でも、と言うよりは協同で芝居を作っていく役者の一人として、あなたにとって何か参考になればと期待しております。」
暖かいお言葉ありがとう御座います!
協同で芝居を作っていく役者の一人としてというお言葉、とてもうれしかったです。
夜の樹の芝居作りで、一番気に掛けている事があります。それは「いつでも皆が共犯者でいたい」ということです。どうしても自分が出演者になってしまうと視野がどんどん狭まってきてしまし、行き着くところ”自分の出ている場、自分のセリフ、自分の感情”となんとも寂しい終着駅にたどり着いてしまうのです。
共同で作っているはずが、いつしか一人作業になって・・・。惨憺たる結果になってしまう事がたたあります。
それは構成に関しても同様で、共犯者でいたいです! というか、全ての芝居作りに共犯していたです。それを許されるのが「夜の樹」の芝居作りだと思っています。
岩下様のお手紙、著名様のお手紙、お客様のアンケートとても参考になりました。それらを”噛み締め”ながらもう少し皆で話し合い
来年に向かいスタートを切りたいと思います。
構成の枠からもはみ出してしまう様な芝居がしてみたいです・・・。
貴重なご意見をいただきありがとうございます。
そして、書き込むまでに長いスパンがあったことをお詫びいたします。
いろいろなお客様がいて、いろいろなご意見・ご感想をいただけることは、ほんとうにありがたく、それにたいしてのわたしの「答え」は、ただただ感謝・感謝でしかなく、「答え」をどう書いたらいいのかわからないでいました。
何を書いてもいまの心境をうまく述べられる自信がなく、書くことを躊躇していたわけですが、誤解を恐れずに書くのであれば・・・
先に他の出演者から、「稽古時間が・・・」、「前半は・・・」などの意見が出ていますが、後悔先に立たず。「〜たら」「〜れば」の話は、終わった後だからこそ語れる部分が多く、11/9〜13の5日間、計7ステージで上演した「螺旋袋とじ」は、あのときのわたしが持っている力のすべてを出し切って作り上げた作品だと、胸を張って述べることができます。
もちろん、完成された完璧な作品だったのか? と問えば、作品に正解などあるはずもなく・・・。
しかし、「あわれな役者だ、ほんの自分の出場の時だけ、みえをきったりわめいたり、とどのつまりは消えてなくなる。」
わたしたちの出場は終わり、舞台は幕を降ろした。
いまはそんな心境なのです。
岩下氏とは直接お会いして書き込み以上に詳しく話を伺ったのですが、夜の樹のメンバーのためにも(またその際の僕の言葉足らずをおぎなうためにも)、氏の言葉の中から一点だけ僕の考えを述べさせてもらいます。
「四場まで象徴的に進んできた芝居が、五場に来て突然説明調になって、おもしろさが切断されてしまいました。理屈に走ってしまいました。」「私の考えでは、「キャベツ畑」は作者にとって原点となる重要なモチーフですが、それ自体で一つの完結したドラマであって、あとの作品に引きずらない方がいいと思います。テーマそのものは引きずらざるを得ないのですが、構成上はきっぱり縁を切る方が、芝居に新たな地平と可能性を見せてくれる気がします。」(617「大谷草平さんへ」より)
「袋とじ」を脱稿し、上演し、すこし時間がたったので、自作の構成に触れさせてもらいます。
「袋とじ」は、一場から四場までで、ネズミが丸いチーズをあちこちの縁から中心に向かって食い散らすように、「劇そのものを疑う」ような構成にしたいと思いました。一場では幕開きそのものの「虚と実」に揺さぶりをかけ、二場では存在を主張すべき登場人物が存在の否定を目論み、三場では場所と時間と語り(「三一致」)を危うくし、四場では一人称の自己確認の視点を分裂させる、等々です。そのうえで五場で劇そのものの立場を危なくし、バランスを崩した場をつくり、その場所で、つまり俳優自身によって演技そのものを根元から疑う演技を舞台上で演じるという自己言及の劇を演じて、「風の死んだ場所」でどのような劇を演じることが出来るかという俳優にとっての問いを見つけます。そしてその問いかけの試行の場として六場を設定しました。旧作「キャベツ」の離人症の二人の登場人物による自己確認の劇を、夜の樹の全俳優が自分達の演技で確かめてみたかったのです。
つまり、岩下氏の言う「劇としての構成の統一」そのものを、身もふたもなくかなぐり捨てて、劇場で劇そのものを問う自己言及の劇を、やぶれかぶれに作ってみたかったのです。その意味では最初から演劇としては構成の統一を断念した、「負け戦」の劇なのかもしれません。
こんな仕事は夜の樹一同としても今年だけで充分です。夜の樹のお客様方にも強引にお付合い願ってしまったと申し訳なく思っています。来年からは、今年の試行をふまえたうえでもっと楽しい芝居を観てもらいたいし、その意味でで、岩下氏の批評は示唆にとみすごくうれしかったです。でも来年のことは来年として、もいちど今年の僕らの試みについて、この言い訳がましい文に対して、忌憚のない辛口の批評をお願いします。
「つまり、岩下氏の言う「劇としての構成の統一」そのものを、身もふたもなくかなぐり捨てて、劇場で劇そのものを問う自己言及の劇を、やぶれかぶれに作ってみたかったのです。その意味では最初から演劇としては構成の統一を断念した、「負け戦」の劇なのかもしれません。」
僕の先の投稿で「構成の枠からはみ出し〜」というのも、地回りさんの上記の意見と同じ気持ちであります。
終演後「やぶれかぶれ」に芝居を作ることができたのか? という問いが、のどに引っかかっていました。そして、岩下様からのお手紙を読ませていただき「あー!やっぱり伝える事ができなかったー」「台本に負けてしまった!」「っていうか、我々は本当にやぶれかぶれに挑んだのか?」と、私の中で、色々な反省点が浮き彫りになりました。あの日、あの場所で「筒型の暗闇」として存在したかった。もう少しで、構成とホンを食いちぎる事ができたのではないかと思えてなりません。
ストーリーテラーとしての役職ではなく筒型の暗闇を目指していた。
以前和田さんと「色気のある役者」について話したことがありました。というのも私が「色気のある役者」になってみたいと思っていたからです(思うのは自由じゃないかぁ!)その頃から漠然と考えていたのが今回の「私のレーニン」だった様な気がしてなりません。「キャベツ」の場面で「私のレーニン」がたくさん出てきて、その筒型の暗闇がお互いに交錯しながらそこにいればはみ出した芝居ができる気がするのですが。
要は「構成の統一」という問題に行き着くと思います。
演劇組織『夜の樹』が目指すものが、「構成の破壊と統一の排除」にあることは十分理解できます。本来、不条理劇はそこから出発したのですから。そして、さらに、それを演じる役者自身の自己変革が問われているのも、不条理劇の特徴だと思います。つまり、従来の演劇とは違って、役者は「演じていない時の自己」と「演じている時との自己」の分裂・乖離そのものに、強い警戒感を抱き続けなければならないという宿命を負っているわけです。その意味で、不条理劇は耐えざる自己変革を自らに課さざるを得ず、そこにこそ不条理劇としてのポスト・モダンの役割があるのだと思います
。
ところで、これを芝居を「見る」側からの視点で捉えると、どうなるか。ここからが私の本題になりますが、まず面白くなければ共感を得られないという鉄則が、芝居にはあります。むろん、その「面白さ」も各人各様ですが、一番大事な点は「芝居が一人よがり」に陥らないということです。観客にどう受け取られるかという視点を度外視してしまうと、芝居としての存立意義が失われてしまいます。芝居が芝居である限りは、一人よがりの自慰行為であってはなりません。観客を置き去りにした芝居は、芝居ですらなくなってしまうということは肝に銘じておくべきことです。
構成と統一の破壊がもたらしたものが、単なる一人よがりのマスタベーションでしかなかったとなれば、これは「深夜の森の中での動物相手のパフォーマンス」になってしまいます。観客もまた生身の人間であることを忘れてはいけません。つまるところは、この両者のバランスなのです。「バランス」は不条理劇が最も嫌う概念の一つでもありますが、芝居として演じる限りは避けられない必要悪だと思います。そして、この難題を解決できそうな唯一の方策は、私の考えでは、説明を排した象徴的な手法です。『螺旋袋とじ』では、第四場まではそれがみごとに実現していたのに、第五場と六場で暗転してしまった、つまり悪い意味で「構成と統一」を欠いてしまった。そこが非常に惜しい気がしました。(これは、あまりに「古典主義的」な私の美学に基づく偏見かもしれませんが。)
ぜひとも、この点を、今後の『夜の樹』発展のための課題にしてほしいと思います。
まず、ここまでの討論のキッカケをつくてくれ、そしてここまで僕たちとの討論に辛抱強く付合ってくれた岩下君にお礼を申し上げます。
さて、夜の樹のメンバーに呼びかけたいことがあります。
今回のこの討論の過程で、一つの異論が生まれました。上演をし終えたばかりの当時者たちが公開の場で坊主まる懺悔のような所感を述べるのはいかがなものか、個人的に面白かったと言ってくれている今回の夜の樹公演の支持者たちがこの掲示板をみて「私は失敗作に感動してしまったのか!」とがっかりしないか? と言うものです。具体的には岩下君の5幕以降にたいする批評に答えた僕の「だから貴兄に情緒的と受け取られたことは完全に失敗です。」(14)や、姫の「これはあくまで私個人の意見ですが・・・『螺旋袋とじ』の1〜4場は完全なる刺身のつまとして存在し、『キャベツ畑〜』からが本題だった。しかしわたし達は初演の『キャベツ畑〜』を大勢で演じるという形を丁寧につくることだけに明け暮れて、『螺旋袋とじ』用の新しい『キャベツ畑〜』を舞台に乗せることができなかったのではないでしょうか。」(13)や、大谷の「自虐的な私の公演後の感想になってしまいましたが・・・。」(12)等でしょう。
たしかにこれだけ抜書きすると、これを読んだお客様たちは「え! わたし、そんなひどい舞台に付合ったの?」と思われるかもしれません。ただ、今回の討論は、感想を述べてくれた岩下君に触発されて、(実は)すこしでも自分達が得をしようという魂胆の僕たちの討論なのです。と言うことは、たとえば岩下君の自宅に押しかけて、岩下家の庭の土俵の上に褌一つになってのっかって、出稽古をつけてもらっているような情況だと思うのです。そのことで一つだけ大切なことがあります。芝居の作り手はある任意の観客が抱いた感想に向かった「お前、それは違うよ」とクレームをつけることは絶対に出来ないという事実です。僕たちは一年がかりで工夫して構築した「小宇宙」を舞台の上に載せます。それを一人の観客が客席で受け取って、今度はその観客の内部に彼自身のものである固有の「小宇宙」を再構築します。その彼の「小宇宙」が僕らの手渡した「小宇宙」と違うものだと言い募る権利を僕たちは断じて持っていないということです。むかし、ゴダールが自分の映画の試写会から中座した観客の胸ぐらをつかんで「お前、なぜこの映画に感動したない!」と叫んだというエピソードがあって、いまでも僕はそういうゴダールが大好きで、彼に加担したいけど、やっぱりそれはゴダールのマケなのです。ぼくが「だから貴兄に情緒的と受け取られたことは完全に失敗です。」と書いたのは、僕が岩下君の土俵の上(小宇宙)に上ってふんどし一つで頑張ってると思って楽しんでもらえないかな? だって、僕たち今回の「出稽古」で結構トクしたと思いませんか?
「今回の公演を面白いと思ってくれた観客がこの討論を読んだら」という問題ですが、乱暴ですこし傲慢な言い方ですが、今回の公演を面白いと思ってくれた観客なら、今回のこの討論もすごく面白がって、ケラケラ笑いながら付合ってくれていると僕は信じます。
その面白い討論がここに来てすこしピンチだと思います。皆さんに呼びかけたいのはそのことです。
現在、この討論は、岩下君の「構成と統一の破壊がもたらしたものが、単なる一人よがりのマスタベーションでしかなかったとなれば、これは「深夜の森の中での動物相手のパフォーマンス」になってしまいます。観客もまた生身の人間であることを忘れてはいけません。」という発言に対して、夜の樹一同の「・・・。」で凍っています。
今日まで一緒に夜の樹の芝居を作り続けてきた同士として、「単なる一人よがりのマスタベーション」という言葉が役者の身体の何処につき刺さったか、よく判ります。僕たちがこの仕事を選んだ時からどれほどこの言葉を、礫(つぶて)として、親兄弟、親類縁者、アルバイト先の物知り顔の仲間や上司、つまり世間から投げつけられてきたことか。
確かに僕たちは稽古場で「自分達の中の暗がりを覗き込む」行為の延長として芝居を作ろうとしてきました。その為には「難解だ」「テーマは何だ」と客に言われようと、「暗がりを覗き込む作業そのものを愉しんでください。」とお客に訴えながら。しかし、それと同じくらい(もしかしたらそれ以上に)稽古場で、まるで合言葉のように「これで成り立つか(表現として)」とか「これでとどくか?(客席に)」と確かめ合いながら一場一場を作ってきました。ひとえに「単なる一人よがりのマスタベーション」という言葉は二度と聞きたくないという、ある意味ではこのトラウマ言葉を封印するための努力をかさねてきました。
たぶん今、この言葉のまえで、皆、「・・・。」の宙吊り状態になっていると思います。
どうか、岩下君の言葉が僕らのトラウマとは違う論点から、違う文脈から来ていることを読み取ってほしい。そのうえで、あっけらかんと、なりふり構わぬ、愉しいだけがとり得の討論をもう少し続けようよ。
「螺旋袋とじ」の私の感想が少し厳し過ぎたかなと、反省しています。「地回りさん」の言う通りで、私の辛口批評を「ツマ」にして、大いに論を深めてほしいというのが私の意図です。「萎縮」しないで、団員の方々の突っ込んだ意見を聞かせてほしいと思います。
初回の拙文でも述べたように、私は今度の公演には大きなショックを受け、「芝居は健在なんだ」という確信を抱き、心地よい興奮を味わいました。こんな体験は久しぶりでした。それだけに、小さな「きず」が気になって、あのような文章を書きました。全面否定ではなく、完璧さを願っての、激励の気持ちからです。
褒めるのは簡単ですが、欠点を究明するのは難しいものです。が、その指摘が正当なものなのかどうか大いに検証すると同時に、その中から「うみ」を吸い取る形で、今後の公演に生かしてほしいと思います。私の「わるぐち」に怯むことなく、前進してください。団員諸氏の奮起を促します。
岩下様の感想、とても刺激を受けております。
決して、怯む事なく、イヤちょっとだけ怯みつつも芝居についての話しを愉しませていただいております。
今までに、公演直後からその公演について開かれた場での討論をした事がありませんでした。毎公演、置き去りにしてきたものはあったのですが気づかぬフリをしていたのか、実は気づかなかったのか・・・。しかし今回は岩下様、著名様の感想に大きく揺さぶられております。もうすでに公演は終わっているにも関わらず感覚としては、未だに「螺旋〜」が体に張り付いていて、大きくなったり縮んだりしています。
「螺旋〜」公演後の討論から刺激を受けて、私の中で今まで故意に?しまっておいた、もしくは熟睡?していた「?(クエッション)」がムクムクと覚醒しはじめてしまいました。
その「?」とは、いったい私は芝居で何がしたいのか? 今までどう芝居に関わって来たのか? どんな芝居がしたいのか?それをして何があるのか? 今後はどうするのか?芝居って趣味なのか?・・・・。
勿論、悲痛にではなく、興奮としての「?」です。そういう意味でも今まで少しばかり討論に参加させて頂いています。
岩下様から発せられた刺激を、夜の樹のメンバーはどう受け止めたのだろうか?という興味もあります。今までに、文章でメンバーと直球的な芝居の話をした記憶がありません。ここらで、少し、マジメに愉しみながら芝居について話してみたい欲求があります。
私は正直、文章を書くのがすごく苦手です、と言うか嫌いです。私は、ライブ派なので(あえて自分で言います)フェイスtoフェイスでの討論の方がとても気楽に、発言できるのです。文章となると後込みしてしまい、書いているうちに「反対の意味に取られたらどうしよう」「この気持ちをどう言葉で表現すればいいのだろう?」等々、とてもキレの悪い文章になってしまい、通常は途中でやめてしまい傍観者を決め込んでしまうのです。
が、しかし今回の岩下様からの感想から発展しつつある諸問題にどうしても参加したくて、つたないながら、キーボードを叩かせていただいています。
(という長い前置きを書かないと、どうしても文章にて語り始める事ができないのです・・・。)
引き続き「螺旋」について
「構成と統一の破壊」→「一人よがりのマスターベーション」→「マスターベーションをも飲み込んでの、暗がりをのぞき込む作業」にできたのではないかなぁ〜というのが私の中にあります。
「螺旋〜」を読んだ段階で、「ある種の危険」をみんなで話したのを思い出します。「濡れたらマズイよ」〓「自慰行為への突入」それを回避するには、役者一人一人が暗闇を覗き込む作業を4・5場にプラスしていかなければならなかったのではないかと思います。それができたら、少し、ほんの少し、扉をこじ開ける事ができたのではないかと。ただ、それができたからと言ってお客様が感じる「マスターベーション」から抜け出せたのか、わかりません。が、しかし実現してみたかったなぁ〜とは今でも思います。
☆僕のマスターベーションについて。
「構成と統一の破壊がもたらしたものが、単なる一人よがりの
マスタベーションでしかなかったとなれば、これは「深夜の森の中での動物相手のパフォーマンス」になってしまいます。観客もまた生身の人間であることを忘れてはいけません。」
今回の岩下様の真意(地回りさんが書いていた意味と同じです)とは別の所で
この言葉を、地回りさんも書いていましたが、イヤと言うほど耳にしてきました。芝居を演じる上でも考えなかった事がありません。
ここから先、自分の思いを文章にできるか不安ではありますが続けさせて頂きます。
マスターベーションが全く無くなってしまうと、面白さが半減してしまう様な気がするのも事実です。全面的に僕のマスターベーションを公開させて頂いた場合、恐らく観ている方に不快以外のものをお渡しする事ができないと思います。が、仮に、仮に、仮にですが、僕のマスターベーションを少しだけ工夫させていただけるとしたら、観ている方との間に壁を作り、そこに鍵穴ほどの小窓を開けて、そこから覗く様に(観るか観ないかをも選択しの一つ)観ていただきます。私自身もそこの鍵穴から覗かれている事を、自分の集中している「おかず」と同等、いやそれ以上に意識します。そして何故か、その「変な意識」が鍵穴の向こうで覗いているお客様にも伝染してしまい・・・。
例えば、私が砂時計の上の部分だとして、観ている方が砂時計の下の部分だとして砂時計のくびれた通り道から、砂が下に少しずつ流れて行く様な、そんな行為だったらといつも思うのですが。
すみません表現方法が下手で。
岩下様も論じていた通り、芝居はおもしろくなければ共感が得られません。かといってお客様を置き去りにした自慰行為でもいけません。しかし逆から辿ると、お客様におもねった表現も受け入れられません。岩下様の書いていた「バランス」も重要課題であります。ただ、どううしても芝居に「軸」を置かずにいたいのです。宙に浮いた水の固まりの様に、掴めそうで掴めないとりとめのない芝居がしてみたいと思います。
だいぶ脱線しましたが、刺激を受けての、わたしの素直な思いを投稿させて頂きました。討論というよりは、私の思いばかりまるで自慰行為になってしまったことをお詫びいた・・・
あっ!メビウスの輪に!
今回の大谷草平さんの意見開陳を、大変おもしろく読ませていただきました。見る側でなく、演じる側の苦悶が率直に表明されていて、さもありなんと思うと同時に、待てよ、という気持ちもやはり捨てられませんでした。
大谷さんの意見で感心したのは、マスタべーションでもいい、それを観客から覗かれていることをも意識した上で演技すればいいのだ(私の誤解でなければ、このように要約できます)、という点でした。ここまで開き直られると、観客の一人としての私は、またまた希望を抱いてしまいます。つまり、嬉しい悲鳴に似たものを感じて、大いに激励したくなります。他人の批評をも拒んだある種の絶対的境地(独善)とは違った、ナイーブな神経と人柄に惹かれてしまうからです。
文学の世界でも、読者のためではなく自分のために書く、という立場があります。芝居で言えば、観客のためではなく自分(役者)のために演じるのだ、ということになります。実のところ、私は「自分のために」というのが大好きです。読者に迎合せず、自分の信念と思想に忠実に自己を表現することにこそ文芸の本質がある、という考え方。これは、文芸や演劇も含めたすべての芸術に当てはまることかもしれません。
問題は、その自己表現という営為が、「密室での自己満足」なら構わないのですが、読者や観客という開かれた「場」で行なわれた時、それは否応なく「社会的な意義」をも持ってしまうということです。そこに批評の余地が生まれ、単なる自己満足とは違った、他人をも魅惑する(芸術的)完成度というものが価値判断の基準として混入してくるわけです。つまり、「マスタベーションの社会化」が必要になってきます。
今度の大谷さんの意見の中には、随所にこの大事な問題に触れた箇所があり、「ああ、やはりそうなんだ」と納得しながら読ませてもらいました。つまり、役者として大いに「揺れている」一人の真摯な人間をそこに見た思いがしました。この「揺れ」こそが表現者にとっては非常に大切なものなのであり、言い換えれば、自己変革のために絶対必要な条件だと思います。不条理劇が作者と役者にとって「永久革命」を意味するというのも、ここから来ています。簡単に言うと、「現状」に満足してはいけないということで、この考え方の根底には厳しいストイシズムがあります。
役者と観客の「接点」をどこに見出すか、あるいは「接点」など拒否して「密室のマスタべーション」に徹するか、これが今問われている問題だと思いますが、いかがでしょうか。
岩下君と大谷、本当に有難う。ここまで来て、この議論を続けてきてよかったとつくづく思います。言葉に不慣れな自演者・俳優大谷の今回の身もだえするような言葉(じつに魅力的な)の真意を、岩下氏がきっちりと受け止めて、氏自身も身体を乗り出して楽しみながら、話を掘り下げてくれている、今回の応酬わくわくしました。これまでの議論、冒険だったりいろいろピンチもあったたけど、だからこそここまで来て、やっと峠をのりこえたよね。年1回の公演を22回かさねた劇集団が、未だに、公演直後に、こんなスリリングで丸腰・手探りの公開討論を出来るなんて誇りにおもいます。(テンションあげ過ぎ?)
さて、一つだけ。岩下君と大谷の議論にずれがあると思います。
岩下氏は初めから今回の公演のほころびを戯曲の問題として指摘してくれているのです。「まず劇としての構成にかかわる問題ですが、」([11]Re:(2)舞台について2・2行目) 「私の違和感は、むしろ劇の構成に対してです。」([16]Re:(2)大谷草平さんへ・4行目) そこから波及した公演成果としての「マスタベーション論」を大谷は俳優の立場から遡及して答えている。(そうか、「ずれ」ではない、波及か遡及かの矢印の方角の違いだけだね。それに僕たちは普段から「俳優集団として、稽古場から劇場まで、演出家無しで「何を演るか」にまるごと責任を持ちながら造っていこう」と言い合っているのだから、大谷の発言は当然だと思う。)それにしても、始めに岩下氏の指摘してくれた劇場での成果としての疑問と、大谷の演技論は少しすれ違っていると思います。今回は岩下氏がそれを承知で「マスタベーション論」を演技論として大谷に付合ってくれたので、しばらくはその続きでいきましょう。機会があったら戯曲論はその先でまた取り上げましょう。
大谷が今回ふれているのは、僕たちにとって非常にたいせつな、夜の樹演技のアクチュアリティーの問題です。僕たちが稽古場で、「常にスリリングに尾根づたいに疾走しよう」とか「あらかじめの生を生きてみせるのではなく、その瞬間を生きながら・・・」と言っている、舞台上の演技に俳優である僕等の「生きている今」をどう伴走させることが出来るか、すり合わせることが出来るかという問題だと思います。岩下氏はそのことを読み取ってくれて「永久革命」と書いてくれました。たしかに僕たちは舞台の上の一瞬一瞬を「そうではない!そうではない!」と叫び続けながら常に新しい「生」をいき続けたいのです。舞台上で出来上がったあらかじめの物語の人物をぬるく生きてみせるのではなく、そこに生々しく「今」を生きている(たとでそれが自慰行という固有の生の行為であろうと)「私」を伴走させることで、砂時計の崩れ落ちる砂粒状の今を表現したい。その二重のあからさまな表現(行為)を、客席にも覗き見させたい。大谷のひたむきな憧れはそこにあると思います。
長くなりました。誰かにバトンタッチ
例の高校演劇の大会も終わり・・・
やっとこのページを開くことができました。
岩下様、改めまして、『螺旋袋とじ』で大谷さんと一緒に出ていた俳優学校1年生の女の子の役をやらせていただきました姫遊里と申します。
まだまだ経験・勉強不足のアオイ私ですが、図図しく、私なりに考えることを書き込みしたいと思います。
和田さんは演技論と戯曲の構成は別の問題として取り上げていますが、私は夜の樹の芝居作りはどれも境目がないのではと思います。(境目があるとするなら俳優である“自分”か芝居“全体”か)だから、ここまでの議論の流れもズレているようには思えません。その上で、俳優とか演出家とか肩書きを無視して一括りに演劇をやる者として岩下先生の<マスターベーションの社会化>という言葉はとても重要な問題なのではないかと思います。
私たちは「自分のためだけに」と思い演じ、観客のことを忘れたことは一瞬もありません。批評を嫌って「観客に伝わらなくても仕方がない、これが自分たちのやりたいことだ」と開き直ることも絶対にしたくないと思って芝居を作っています。
それでも、表現行為は<マスターベーション>以外の何モノでもありません。演劇だけではなく、全ての芸術・表現はマスターベーションから始まるんだと思います。
だからこそ、大谷さんのいう<砂時計>を求めるし、それはつまり、岩下先生の<マスターベーションの社会化>ということになる。
観客は、何のために劇場に来るのでしょうか。
私はこの問いをずっと考えています。でも答えが見つかりません。
これが解らなければ、「演じる側と観客の接点」をどこにおいたらいいのかが解りません。社会化は遠い。
その上、夜の樹のお芝居は、観客に助けてもらわないと上演したことになりません。何も考えずに、ただ客席に座って見ているだけで「ああ、面白かった」と劇場を後にできる芝居ではないからです。
観客は、見ながら必死で考える。見終わった後も考える。そして様々な解釈をし、正解は解らず、結局「?」のままである。しかし、小屋の匂いや舞台の色、役者の声の断片が時々フラッシュ・バックして、何故か来年もまた劇場に足を運んでしまうのです(理想か・・・?)
その一方で「わかんなかった、ムズカシイ」(ああ、この言葉を何度聞いたことか!)と一生サヨナラの観客もいる。
この差を、私たち作り手側はどう埋めたらいいのでしょうか。
この差が観客と作り手の接点をどこにおいたらいいか解らない原因だし、社会化を目指す手がかりだと思います。
今の自分の悩み相談みたいになってしまいましたが・・・。
シタタラズな文章をお許し下さい。
拙文の「マスタベーションの社会化」についてのご意見、興味深く拝見しました。実際に舞台に立っている方のナマの声が聞こえてきて、大いに考えさせられました。
「接点」の問題は本当に難しい要素を孕んでいますね。「着かず離れず」といった世間的な処世術が通用しないからです。「あらゆる芸術表現はマスタベーションから出発する」という立論は、私も同感です。芸術とは自己表現にほかならず、巧拙は別にしても、その根底に表現欲求という動機が内在しているからです。
問題は、このあとです。芸術表現が単なる自己満足、密室のマスタベーションで終わるとすれば、それは個人的な営みに過ぎず、あえて「芸術」という名称を冠する必要はありません。実は、人生そのものが「自己表現」なのであって、無意識のうちにこの欲求に突き動かされて我々は生きているのだと思います。そこでは「芸術」などというキザな言葉は不要です。(シェークスピア流に言えば、人間はみな俳優で、人生はその舞台ということになりますが。)
演劇は、このような性格を持つ実人生を、あえて舞台という「もう一つの人生」に載せる行為です。虚構の人生を別に築き上げることです。そうであれば、舞台上の役者はナマ身の人間とは違った性質を帯びざるを得ません。人生の再現です。そこにこそ本当の自分を投影させられる、苦難に満ちた、しかし喜びあふれる試みです。しかも、舞台を見ている観客がいます。「彼らを意識しないことはなかった」というあなたの言葉は、とても重要な意味を持っています。前述の私の考え方と一致する要素を含んでいるからです
「観客を置き忘れた芝居」というのも確かにあります。いや、アングラの発祥は、そもそもこのテーゼから生まれたものと私は理解しています。あえて観客を無視することによって、逆に観客のリアクションを引き出すという手法です。否定、反発、怨嗟の声が観客の中から上がることによって、芝居そのもののアクチュアリティが保証されるのです。これを私は「負の感動」と呼んでいます。そしてこれこそがアングラ劇の社会性だろうと思っています。批判は無視に勝ります。何となれば、興味や関心のないものには、我々は怒りも反発も感じないからです。憎しみもまた愛の一表現です。無反応こそ最も恐れなければならない現象です。
「よく分からないが、また見に行きたくなる」という気を起こさせられれば、その芝居はもう成功です。観客を混乱と懐疑の淵に追い込み、そこからの脱却口を探させること、これが不条理劇の意図せざる効果ではないでしょうか。「意図せざる」が重要です。意図すれば、迎合と阿諛追従の危険が待っています。突き放しながら愛する技が必要なのです。
迷い、煩悶しながら、しかし自信を持って突き進んでください。これからも応援します。あなただけでなく、<夜の樹>全員の方々の営みを。
このへんで「マスタベーション」という言葉から離れましょうか。と言っても、ぼく等と観客の関係についての話から離れるつもりはありません。ただ議論の入り口をちょっと変えて、例の夜の樹おなじみのテネシー・ウイリアムズのあの言葉、「われわれはひとりのこらず、監禁の宣告をうけて、われわれ自身の皮膚の内側に孤独に幽閉されている。個人の叙情は、生涯を独房に監禁された囚人が他の囚人に向かって呼びかける叫び声である。」から語り直してみたいのです。
つまりぼく達は夜の樹の劇行為(なぜ観客の前で演じるか? という初発の衝動・憧れ)をこのテネシー・ウイリアムズの言葉のなかの「個人の叙情」と、とことん重ねて、同値して、今日まで芝居を作ってきたのです。ヒューマニズムの発端が人間に対する「興味」だとしたら、ぼく等は「興味」を突き抜けて「(人)恋しさ」を初発の衝動にして、芝居を作って来ました。その意味ではぼく等と観客の関係は「一方的な片想い」でこそあれ、観客を置き去りの「自己満足」なんて言われたら、「そ、そんな・・・!」と絶句して固まってしまうくらい、篤い思いと眼差しを他者・人間・客席へ投げかけて、稽古場でたくらみ、劇場で公開してきたのです。
そのうえで、夜の樹の芝居が「観客を置き去りの自己満足」と観客に受け取られるとしたら、それはどういうことなのか? つまり、「ぼく等は・・・のつもりでした。」と、「しかし、そうは観えないよ。」の水掛け論ではどうしようもないのです。まずはぼく等自身が水掛け論の先で自分達の表現を再検討する必要があります。
そのためには問題を三つにしぼりましょう。
ぼく等の表現が客席に届かない理由には
1.ぼく等の表現者としての力量不足。2.ぼく等が届けようとしている表現の中身と観客が受け取ろうとしている中身のすれ違い。3.「届かなくて悪いか?「届ける」「受け取る」という舞台と客席の関係を考え直そうよ」とぼく等が尻をまくって強弁した場合。
以上の三つがあると思います。
1.については一番大きな問題だけど、稽古場でやりましょう。ハハ
2.について、ここで大切につっ込んで論じたいと思います。つまりここでは、ぼく等が届けようとしている表現の中身と観客が受け取ろうとしている中身のすれ違いの問題と、その問題自身を劇表現として観客に届けるための表現者としての力量がぼく等に問われているのです。もしかしたらこのことを注意深く考え抜くことで、3.の問題に勇ましく切り込んでいけるかもしれない。あるいは、2.の問題さえ詰めることが出来たら、お膳をひっくり返すみたいな喧嘩は売らずに、波風たてずに3.の問題は示談で片がつくかもしてない。
ということで、よろしく!