ライブ「演劇論」

第1回「笑いについて」

演劇論なのだ

和田 毎晩「掲示板」を覗いてそれで「おやすみ」、みたいなだけのHPじゃないんだぞ! 夜の樹のHPは! という思い入れから、この際すこし真面目に、ライブ感覚で「演劇論」のバトルトークを夜の樹メンバーで実演することにしました。毎回僕等役者にとって興味あるテーマを選んで、ワイワイやっていこう。
 第一回のテーマは「笑い」。「夜の樹にとって笑いとは何か?」という、いわば私探しの旅です。ハハ (夜の樹の芝居って、笑っていいんだか、笑っちゃいけないのか、あと「もうちょっとで笑える」変な劇団)というチマタの噂も、この際、ぶっ飛ばしたいじゃないか。
 話の切り口、というか、取っ掛かりとして、いきなりハードに、「笑い」論の古典・ベルグソンの「笑い」をかいつまんで紹介します。古典といっても、けっこうラジカルでいまだにみずみずしい内容だよ。僕の大好きなフランスの哲学者の、内角を鋭くえぐって低めに落ち込んでくる剛速球です。聞いてください。

ベルグソンの「笑い」

まずベルグソンは「笑い」とは何か? をあぶり出すために、「芸術(悲劇)」とは何か? から始めます。この論の持ってき方がけっこう過激で意表をつく。

石のほうがエライ

和田ベルグソンは、宇宙のなかの存在として、感覚や意識を持った「アメーバーや人間」よりも、石ころのような「物質」のほうがある意味では完全な存在だと言う(この考えは彼の主著「物質と記憶」のなかでもっと詳しく展開している)。つまり感覚や意識のない物質は、宇宙のなかで全ての他の物質とくまなく関係を取り合って完全なかたちで存在しているという訳だ。(万有引力や量子論を念頭において言ってるんじゃないだろうか?)それに対して、アメーバーから人間にいたる生物は、刺激と反応を手がかりに、自己が生存するための手段や利害の目線からしか自分以外の存在と関係を取ろうとしない。ジコチューのぶん、欲に目がくらんで、宇宙全体と拘わることが出来ない欠如存在だと言うんだ。なんか禅坊主が言いそうな、過激で面白い考えだろ。でもたしかに、マリファナ体験なんかで、「あー、どうして俺はもっとまわりの木々や草花なんかとちゃんと関わらずに迂闊(うかつ)に生きていたんだろう!」なんて反省することがあるからね。(いや、あるらしいからね。)僕はこの辺のベルグソンの言い分は無条件にヒイキしたい。つまり、人間は生存本能を磨きすぎたおかげで、本来の豊かな宇宙内存在からスポイルされて、物事を利害・効率を優先させたパターン思考に陥って、物事の本質を見詰め、内奥を感受する力をなくしている。

芸術だってエライ

そこで、その欠如をおぎなうのが、詩人であり、画家であり、芸術である。なかでも演劇(悲劇)は、人間が生きていく過程で摩滅させた「あり得べき感性」、つまり物事をパターンではなく個別に、表面ではなく内面を、見すえる感性)を、劇場で蘇生させてくれると言うのだ。芸術家は、生存競争や銭勘定で遅れを取る分、宇宙内存在としては、けっこうまだまだ捨てたもんじゃないよ、というわけだ。すごく飛躍があって、とくに「じゃ、物質に〈本質を見詰め、内実を感受する力〉があるのか?」ってカラミたくなるけど、そのへんもふくめて、まるごとベルグソンの理屈を楽しんだほうがオトクです。
「悲劇とは何か?」 までは駆け足で、以上。

喜劇?

では「喜劇」(笑い)とは何か? 僕等は普段、どんな時に笑うだろうか?
T うっかりして何かをしくじった時。人がつまずいて不様に倒れた時。花嫁の父が緊張して挨拶をトチった時。
U 僕等はたった一人では決して笑わない。笑いを共有する仲間と一緒に笑う。(一人で笑う時でも「私をふくめた世間、或いは集団からみて、あの人は可笑しい」といって笑う。現に一刻も早く自分だけで体験したその笑いをその場に居合わせなかった仲間に報告して、もう一度一緒に笑いたいではないか)
V 僕等は感動している時には笑わない。素に戻ったとき、無感動、覚めた時にしか、笑わない。だから愛の告白の最中に笑われたら傷つくし、臨終の枕元で笑ったら不謹慎な薄情者と謗られる。
 これ等の特徴から、ベルグソンは「笑い」というのはけっこう現実的な「社会的身振り」だと言うのだ。しくじる時、つまづく時、トチる時、人は硬直している。つまり、「人間」のくせに「機械か物」のようにこわばっている。本来人間はもっと柔軟で生き生きしていななくてはいけない。社会(集団やグループ)にとって、盗みや暴力ほど有害ではないが、仲間の一人が柔軟で生き生きした円滑な共労のための行動能力に欠けることは、かすかなデメリットなのだ。だから、罰するかわりに、それよりはゆるやかな罰として「笑う」。つまり「ナニもたもたしてんだ」と、馬鹿にして笑う。だから、成り立ちにおいて、「笑い」は実利的・現実的なのだ。醒めている。
 けっこう面白いだろう。ベルグソンは「笑い」の発生を、僕等のDNDに刻まれた原始共労時代の記憶にまで遡って取り出してくる。
   こんな風に、ベルグソンは「笑い」を「悲劇」の対立項として、感動して共感したり肩を組んで許しあう行為とは別の、醒めた社会的な身振りとして論じている。だから演劇における「喜劇・笑劇」は純粋芸術の「悲劇」に対して、距離を置いている。いはば、「芸術・悲劇」と「現実・日常」の中間に位置して、その二つを冷静に「笑う」ことの出来る表現形式だというのだ。
 このあたりから、俺たち夜の樹の「笑い」とは何か? ベルグソンの論のどこがイタダキで、どこが物足りないか? 「夜の樹の笑い」としては、もっと遠くまで行くんだぞ、というところを、ブチカマそう。

猿は笑わん

大谷大谷 「アメーバーから人間まで」ってベルグソンは言うけど、アメーバーは笑わなけど・・・
一同 ・・・。
玉井 犬は笑うよ。
和田 昔の教科書では、笑うのは人間だけだってことになってた。でもテレビ観てると、チンパンジーなんか、あれ、笑ってんじゃないかって・・・。
瀬畑 あれもここが(頬が)挙がるだけで、人間のような可笑しくて笑うのとは違うんじゃないかな。
玉井 でも、ゴリラに人間の手話みたいのを教えるじゃないですか、あれでちゃんと「悲しい」って表現を、お母さんが殺されたときのことの話をすると、「悲しかった」ってジェスチャーで感情を表現するから、笑いも当然あるんじゃないかなァ。
和田 そこなんだ、なぜベルグソンが「笑い」にこだわるかと言うと、「社会的な行為」という意味で、「笑い」だけはサイクルがひとつ違うんだよね。ひとつ醒めてるというか。
寺田 「悲しみ」よりランクが一つ上なんだ。
瀬畑 例えば、猿同士が相手が失敗したときに「あ、失敗した。俺は(失敗)しないようにしよう」とか、可哀想だなって思ったとしても、人間が他人の失敗をみて「ぷっ」って笑うのとはちょっと違うのかもしれないよね。
和田 ベルグソンは「悲劇は芸術だ」って、いちおう「悲劇」の顔立ててるみたいに言うけども、じつは「悲劇は甘いよ」というか、「笑いの方が冷めているんだよ」って言いたいみたいなんよね。つまり、「猿でも出来る」感情移入型の「悲しみ」よりも・・・

なぜ稽古場でふくの?

玉井玉井 今日の稽古みたいに、ふいちゃうっていうのは、あれも社会的な行為?
瀬畑 笑っちゃいけないって思うから、ふくんだよね。
和田 ベルグソンの先があると思うんだけど。いや、今日の稽古場での「ふき」がそんなに「先」かどうか解んないけど、自分に対する笑い、自嘲っていうのがあるよね。いま俺たちが面白い笑いとして取り上げるのは、結構自分を笑ってしまうっていう「苦い笑い」というか、それが「笑劇」とかコメディア・デ・ラルテよりもあとに、つまり、ベケットの「ゴトーを待ちながら」は自分たちへの笑いだよな、苦い笑いだよな、神に見捨てられた、神がいなくなった中での「寒々とした笑い」。今日はこのことを話したいなと思ったんだけど、ベルグソンのあとにもっと新しい笑いができているんじゃないか。でもその前に、笑いっていうのは真面目さをカタキにしているということは、ベルグソン自身が言ってることの続きだと思う。つまり集団の中で、機械的に硬くなったり不器用につまづいたりといった弊害と同じように、「頑(かたく)なな生真面目さ」っていうのもはやっぱりカタキだヨというか、ヤバイよっていうのがあると思うんだよね。で、稽古の場合でもどこかでこのまま真面目にやっちゃう稽古っていうのはイヤだぞという、そこで「ぷっ」というかたちで…。
大谷 呼び戻しみたいな…?
玉井 緊張をほぐすというか?
寺田 うん。特に夜の樹の場合にはね。
瀬畑 このまま突き詰めて、緊張して笑わないで、大真面目にいったらすごいイヤな稽古になっちゃう・・・。
和田 そういう意味で社会的な身振りだと思うんだよ、稽古場での「ふく」っていうのは。
玉井 (稽古場で吹くのは)どうにも止められないんですよ。
瀬畑 ハマルよね。
和田 人を批判するんじゃなくて、自分が真面目になっていることに対して笑うっていうのがあるよね。ハハ、自分に向けての「これはマズイ」という、大急ぎで社会に適合し直そうという無意識の(社会的)行為。
大谷 かなり屈折しているよね。
寺田 「笑い」は自分に向けた途端に屈折するんだ。スゲー屈折する。健康な笑いだよな、人を笑っている間は。
玉井 ですね。

ナマの笑い

大谷 稽古の中で、それとは別に、……、本当に、ナマに来たときに可笑しくなるときがあるんですよ。
瀬畑瀬畑 あるある。「ここまで行っちゃった!」 みたいな、「えー!」っていう。お互いが問題だけど、自分ひとりじゃ出来ないけども、「ここまであがって来ちゃったヨ」っていうのが。それにもう一人の私が気がつくと、もう可笑しくて可笑しくてしょうがない。
大谷 「あー、ナマが来ている! ナマが!」って・・・。
和田 つまり何かが剥き出しになるだろ? なんなんだろう、あれね。なんで笑うんだろうね? 何が可笑しいんだろう、剥き出しになったときに。しかもある程度、敬意はらうよな? 「わー、すごい。いいよ!」ってのがあるよね。なんなんだろう?
寺田 え? 人が面白い芝居をしたとき?
瀬畑 うん、相手が。自分も立っているときに、それでさ「ゴメンゴメン」って言いながらでもどうしても笑っちゃうときってあるじゃない? まあよくあるけど、あたしたちの場合。あれって、今言ったような「いいよ、いいよ」っていうのもあって笑っていることが相当あると思うのよね。
大谷 本当にその時間がきちゃって、自嘲とも似ているのかもしれないけど、もう俺が対応できないその時間なのかなーって今、チラッと思ったんですけど。
和田 でさ、ただ理屈ぬきに、生理的に可笑しいだけなんだけど、ある意味で「いいものに出会ったよ」というのがあるだろ、その笑い。ということはさ、俺たちの中に「このままじゃ真面目すぎるよ」とか、「このままじゃ堅すぎる」、「それをどこかでこじ開けてほしい」っていう欲求が生理的にあってさ、それにじかに繋がるものがあったときに、「同感だ!」というかたちの笑いがあるんじゃないの?
大谷 ぼくの場合、「同感」というよりも耐えきれない、その時間とその場にもう押し潰されちゃうような感じなんですよね。
瀬畑 稽古中の大谷さんの笑いっていうのは、今聞いていると「だよな」っていう感じがする。「スイマセン、スイマセン」って言いながらそこへ行くと(笑っちゃう)。相手がいい芝居すると笑うのよ、この人(大谷)は。
玉井 (笑)そうかなァ、もっと意地悪なときがある。
一同 (笑)

笑わせ香川さんビーム

香川 見つめ合うと目の底にいつも笑いが忍んでいるのが・・・。(笑)
大谷 「笑わせ香川さんビーム」?
一同 (笑)
大谷 それは寺田さんのほうが強いよ、ビームは。
香川香川 大谷さんはねぇ、
玉井 大谷さん、絶対笑うなーと思ったもん今日、稽古で。案の定、笑っているし。
瀬畑 うん、誘うのは大谷さん、我慢しているのが見えて笑っちゃうのが寺田さん。
和田 さっきのさ、大谷の言った「ナマにきた笑い」、「むきだしの笑い」っていうのをもっと言葉にしたいね。

「もうちょっとで笑える」

大谷 そうなんだ。なかなか言葉にするのは難しいんだけど。笑いが「夜の樹」の芝居に繋がるっていうのはそのへんかなーって、ぼく自身は思っているんだけど、それが成功していくと笑いが他の人にも、笑いというか面白い芝居が提供できるんじゃないかなって気がするんだよね。
瀬畑 でもね、それを手っ取り早くやっちゃっている(芝居)をときどき観るとさ、要するにその稽古で笑いを誘っちゃったところを逆に客の前でやっちゃってお客も一緒に入れて笑わしちゃうっていうのはやっぱり観ていてイヤじゃない。だけど、じゃあそれを(出演者が)我慢して笑わないようにしてやっているのが、お客は笑えないのかもしれないし、「もうちょっとで笑える」みたいなそこへもっていっちゃっているのかもしれないし、そこはわからないけども。
玉井 もうちょっとで笑えるっていうときは、「なんでぇ笑わせてよ!」 って思うのかなぁ?
大谷 いや、それとは違う気がする。
瀬畑 うん。あたしの友人は、何人かいるんだけど自分は可笑しくてしょうがないんだけど人が笑わないのに笑ったら悪いと思ってすっごく我慢しながら観ているって言うのよ。
大谷 ああ、「蠅取り紙」のチラシのコピーの「もうちょっとで笑える」って、そういう風に伝わっているのかもしれないですね。
瀬畑 でもね、そう言うのは年配の人もいるし若いときにそういう風に言った人もいるし、「あたしは可笑しくてしょうがないんだけど、みんなシーンとして観ているから悪いと思って我慢しながら観ている」っていうのは相当何人からかは聞いているのよね。

ズレと笑い

和田 本(台本)の段階では俺の芝居の場合にわりとズレっていうのを使うよね。そのズレっていうのを笑いの方に持っていっちゃっているんだけど。つまり俺の中では、悲劇っていうのはわりと目の仇なんだよね。人間のやることをその通りにこっちも同じ波長になって、しんみりして感動したり「ウッ」と泣いたりっていうのは、どこか信用できないよ、というか、それやっていっちゃぁヒットラーのあとくっついていっちゃうことになりかねないヨ、みたいなさ。感動っていうのは怪しいヨ、っていうのがあって、その感動のときに感動からちょっとズレる、そのズレた冷めたところで見つけていきたいっていうのが。つまり、感動的なドラマの起承転結をピッタリとその通りにやっちゃったら「感動的、感動的」で終っちゃう、悲劇になっちゃう。その純粋悲劇がイヤなのはそれで持って行かれるのがイヤだっていう気持ちがあって、そこからちょっと自由を確保したいってなると、それをちょっとずらす。ズレた分だけ冷めることができるっていうのと、ズレた分だけ笑えるっていうところにくるんだけども、それは企みなんだよな。でも、大谷がさっき言った本当に笑っちゃうっていうのはそれよりももっと純粋に生理的なものだから。
大谷 うん、そう、生理的なもの。
和田 そこで、その生理的なものを問題にするときに、その生理的なものにも実は無意識にベルグソンじゃないけども構造が残っているんじゃないかな。つまり今言った真面目さは信用できないとか、それは恐いから笑っちゃうみたいなのが本能的に、無意識に滑り込んで、それが大谷のさっきの純粋な笑いにも実は根にはあるんじゃないかという風に勘ぐりたくなっちゃうんだけど、そのへんはどう? そうは思わない? やっぱり純粋な笑いっていうのは別の種類だと思う?
一同・・・。
和田 つまり俺がいま提案した真面目さに敵対するというか真面目さからズラして、そこに笑いをみつけていくというのと、稽古場で思わず本当に笑っちゃったり、「よくやってくれた!」っていう、あれは今俺が言った作為的なものとはまた違うじゃない。で、ほとんどの喜劇っていうのは純粋なそういうものをなんとか再現しようとして今度は作為的に作って失敗したりいやらしくなったり商業主義になったりしてイヤミになるんだけど、俺の笑いはイヤミじゃないけどズレるという意識的なところで企んでいる部分はあるわけだよね。

涙は信じない

瀬畑 今聞きながら思ったんだけど、あたしはくだらないドラマでもボロボロ泣くのね。だから昔からよく自分の涙は信用していないっていうふうに言っているんだけど。それは、泣いているあたしは「バカね、こんな作り物の、向こうは泣かそうとして作っているのになんで泣くのよ」って思いながらでも泣いているのよ。だから涙っていうのはすごい信じていないのよ、自分自身の涙っていうのはね。作り物を観たときのことだけど、日々は関係ないんだけども、・・・いやっ、日々もあるかもしれない。誰かが語ったときにもらい泣きするときにはそれはもしかしたら
玉井 あー、あー!(この時、運ばれてきたビールがこぼれる)

              録音テープ数分飛ぶ。(おそらく玉井が)アダプタかスイッチに触れたのだ)

香川 ほら! 入ってなかったんだ・・・。いつからだろう?

笑う集団(笑いすぎですよ)

寺田寺田 (気づかずに、会話の続き)聞きたい! 是非聞きたい、絶対笑わなかった時期の香川さんの内側! 笑う笑わないに性格が関係あるとしたら、もしかしたらそれは、香川さんの性格じゃなくて、集団の性格だね、その集団の。(笑)
香川 集団の性格って言うのはかなりありますね
寺田  そうだよね
香川 そう、それ・・・だと思う。こうやっていま、笑える私が居るんだから。
寺田  でもおかしいよね、みんなさ、オレみたいな性格の奴が十人揃っていても、その笑わない性格の集団じゃ絶対誰も笑わねぇでシーンとしてるとは思わないんだけど(笑)
和田 でもちっとも笑わない寺田は想像できるよなァ。だって俺達だってさぁ、今日一日、その場その場で、職場とか人間関係で、ここは絶対に笑わないって瞬間あるもん。
玉井 でも、夜の樹は笑いすぎですよ。今回初参加の前田君だって、今日腹抱えて転がって笑ってましたよ。(一同爆笑)
和田 腹痛がってね。ハハハ
玉井 稽古場と違って、舞台になると、夜の樹は「笑いたいけど笑えない」劇団になる。(笑)

なんとなく見えてきた

大谷 「もうチョットで笑える」っていうのがさっきのズレとも関わってくると思うんですけど、ズレに観客が陥ってくれたり、我々が一緒に陥ることができたら、きっと「もうチョットで笑える」ことがそのまま「笑い」になる・・・。
瀬畑 うん、うん、うん。
大谷 そこまで演ったら、お客さんがはまってくれる!
和田 欲求不満で成り立っている笑劇ってないんだろうか?
玉井 あると思うんだけど。
大谷 その辺が「もうチョットで笑える」なんじゃないのかな。
玉井 入り込めずに終わってしまうお客さんって居る訳じゃないですか。
大谷 だから、夜の樹の芝居はそれぞれが、「クッ」と個人的に小さく笑っているのが・・・。
玉井 みんなで笑う一歩手前みたいな。
大谷 自分だけで、パーソナルに、笑える! それがイケていたら「成功」。だから欲求不満のまま、イケている時のほうが成功の確率は大きい!
玉井 嫌な劇団! ハハ、欲求不満に落とし入れて!

気取らないぞ!

和田 「醒めてる」と「笑い」が出たり入ったりするのが微妙にあって、それは薄かろうと濃かろうと、人それぞれのアンテナでいいと思うんだよね。でもこれを「もうチョットで笑える」こと自身を楽しむエリート集団の観客みたいなものに、俺達が持っていっちゃうと、これまたイヤラシイものになると思うんだよ。インテリの「気取り」にすり寄るのはイヤだもんね。ただ「醒めたい」っていうのはあるよね、インテリ関係なしに。俺達、生活者として、「乗せられたくないよ!」ってもがあって、それはインテリとか馬鹿関係なしに、誰の中にでも当然あるはずだって思うところで、芝居作ってる訳だから。それが「夜の樹」の独特のスタイルで「これ良いでしょう?」って変な「売り」になってさ、スノビズムみたいな、知的な気取りの集団にはなりたくない!

乗らないぞ!

瀬畑 それともう一つ、今度は逆側で、演ってる側で、「笑い」っていう反応は 一番音として届くから、判るじゃない、「受けた!」って。笑ってなくても受けている人はいると思うんだけど、つい笑われた所にのってしまう。演者として、次の日にここは笑って貰えるかもしれないっていう期待で変な芝居になってるかもしれない。自分自身も、それ、あるんだけど、「あっ、2日目に笑って貰えなかったから、私の芝居スベッタかしら?」って
香川 ありますよね! 不安になったりとか。
瀬畑 そういうのは、絶対にあっちゃいけないと思うんだけど、悲しいかな役者っていうのは人間だからつい「醒めている自分」と「乗っている自分」と・・・。

シビレさせたい

和田 芝居の中での「笑い」のしめる位置としてはさぁ、結構もっと大きなところで「夜の樹」の芝居独特の感性があって、そのなかの一つに「笑い」があるんじゃないか。例えば今日の稽古でも寺田とおれが観る側にまわって、3場を「このほうがいいんじゃないか」って変えたじゃない。読みの時と違って、あれは「笑い」とは全然関係ないけど、あの場を夜の樹の芝居としてどう成りたたせるか、って言う共通の感性じゃない。演ってる側も俺達の提案に、それでイケルと思うから、そう応じてくれるし、そこには「笑い」の要素は無いよな。あるのは、ただ「笑い」とも地つながりではあるけど、さしあたっては、もっと広い意味での「舞台上のリアリテー」だよね。
大谷 だから、俺そこだと思うんだよね。全部が全部「ハハッハ」っていう笑いじゃなくて、さっきも言った様に「醒めて感動する」っていうのが、僕の中での「笑い」と思っているから、「生々しい」のが見えたときにはきっと、みんながどう思っているのか判らないんですけど、「醒めた時の感動」っているのが・・・。

じかに触れたい

寺田 だから俺達の中にも「感動したい!」っていうのはあるんだよね。ただ、ドップリで感動したくないっていうのか、もの凄く強くアレルギーとしてそれがあるから、そうすると頼るのは「リアリティーだよ!」って言うか「醒めたままで」ギリギリまで行って、その果てで「感動したいよ」ってのと「笑いたいよ」の、その両方があるよね。
和田 うん。俺達だって「もうちょっとで笑える」笑い以外にも、実は、狙っているよね、お客をゾクゾクさせたいナっていう仕掛けを。芝居の一場一場で。
大谷 そう、「感動」じゃなくて「シビレ」させたいんだ、お客を。
和田 それが今大谷が言った「生々しい」「ナマに来てる」ってやつだと思うんだけど、俺達自身「笑い」を通りこして、なにかむきだしの物に「じかに触れたい」っていう憧れがしょっぱなにあって芝居を作ってるよね。人間と人間の関係や一人の人間の内側の暗がりを覗き込んで、そこに見つけたむきだしの何かを舞台にのっけて、お客をゾクゾクさせたい・・・。
寺田 それが夜の樹のメイン・テーマだから。
香川 夜の樹の「笑い」は、その中の一つなんだ。
瀬畑 うん。
玉井 そう!
大谷 あ、時間だ。

2003.9

  
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