石関 善治郎氏 (詩人・編集者)

マガジンハウスの「鳩よ!」「自由時間」「樂」の編集長を歴任されたと同時に、「n」という30ページほどのなんとも魅力的な同人誌を八人の詩人と発行していらっしゃる。そこに毎回掲載される氏の、男の艶を秘めやかに湛えた作品が、ぼくはたまらなく好きだ。ヘビーな隠れファンである。いちど親しくお目に掛かってお話を伺いたいと思っているのだが、まだ実現していない。(和田)

(2000年11月)「な・・・七つの大罪」パンフより

 渋谷の街の人込みに揉まれながら、私は、良いものに触れたあとの、独特の興奮に浮かされて歩いていた。それは、久しく聞いたことのない声で語られた、稀有な表情を持つ言葉だった。言葉自体は何でもないのだが、その声で語られると息をのむ、というような・・・。

 女一 それだけですか。

 男一 ・・・。

 女一 今日まで生きてきて、たったひとつの思い出が、橋の上からの眺めだけですか。

 男一 何だ、その「たったひとつの思い出」というのは。

 女一 はじめに「ひとつだけおぼえていることがある」といったのはあなたです。

 男一 俺が?

 女一 忘れたのですか。

(『今朝の雪』)

 〔声〕は登場人物その人を起点として、その人のなかを貫いて立ち上がってくる。〔声〕は何もほのめかさない。大方の芝居がそうであるように、言葉にもたれかかったり、情緒をかもしだしたりもしない。
 〔声〕と言葉のあいだに乖離のないように、言葉と人物のあいだにも隙間はない。和田周の芝居では、登場人物は〔声〕と共に現れる。何もない地平に〔声〕を発することで立ち現れる。彼らが立ち現れて初めて世界が始まる、というように。
 だから、和田の舞台では、〔何もない〕というのが大切な要素だ。何もない地平、という始まりのために、和田は、密かに様々な仕掛けをする。引用した『今朝の雪』の、「前行性の記憶障害と逆行性の健忘症」の為に「いま」しか持たない男。『夜の隣人たち』の芝居を観る者=観られる者。前作『微熱図鑑』では、凧あげをする「父と息子」が次の瞬間、精神障害の患者となって取り押さえられ、「生」は、何メートル四方かのリングだ。
活動の拠点を東京芸術劇場に移した前作から、和田の芝居は現代に積極的にコミットし始めたように思われる(砒素カレー事件やオウムを思わせる場面など)。けれど、和田が、半生のどこかで獲得してしまったであろう、〔実在〕を疑いつくすことーは安易な言葉へのもたれ掛かりをおのれに許さないだろう。
 新作『な・・・七つの大罪』。「な・・・七つ」と口ごもらせながらの〔非在〕をしかけつつ、「死んだ人間の残していった物にいいかげん囲まれながら暮らしていくのって、まんざらわるいことじゃないんだぜ」と語らせる、和田の創り出す不敵な〔現在〕に注目したい。

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