岩下 壽之氏 (作家)

長野県佐久出身の作家である。佐久の野沢小・中学校で僕らは同級生だった。私事になるが、かって我が家は困窮のはてに野沢から夜逃げした。それが、迷惑を掛けた家主の令嬢の宥恕のおかげで、昨年から佐久の旧友たちとの旧交を、五十五年ぶりに、嬉しく回復できたのである。(今年の客席に同級生が十五人ほど座ってくれている。)
 岩下氏の近作は「日本から、旋風!」。四国の松山ならぬ隣国中国を舞台にした現代版「坊ちゃん」。痛快モダン教養小説である。(和田)

ヨーロッパへは行かない (2006年11月)「蓮の花」パンフより

 今季の公演『蓮の花』の台本を見せられたとき、おやと思った。題名からして、今までの和田の作品とは違う。さらに目次を見て、私の驚きは決定的となった。俳諧の連歌を模した三六場の構成。――ああ、和田は日本の伝統へ回帰し始めたのだな、と。  彼のこれまでの作品に日本的な要素が皆無だったわけではない。昨年の『螺旋袋とじ』では浄瑠璃から借用した〈道行き〉の場面が強烈なメタファーを醸し出していたし、せりふのはしはしに古典を踏まえた名句が散りばめられていた。が、概して、和田のこれまでの戯曲は不条理劇から発した西洋の伝統的色彩が濃かった。古今東西にわたる該博な知識を手玉に取るアレゴリーと、言葉遊びを基本に据えたせりふ回しのおもしろさは和田作品の真骨頂だった。その一部として、日本の伝統文化も取り入れられていたのである。   しかし、今回の『蓮の花』では、連句の〈におい付け〉を思わせる場面転換の手法を駆使して、あっと驚くような斬新な演劇空間を構築している。興味深いのは、方法論だけでなく、内容面でも日本回帰と言ってもよい現象が随所に現れることである。一見とりとめもない筋立ての奥に「日本」が垣間見られて、歌仙をひもとくような興趣が充満している。例えば、「なし崩しの負け戦だからこそ、我慢しないでしみじみ泣けるんじゃないか」(二十三 痛み)という「父」の言葉。ここには人生の無常が息づいている。さらに、死にゆく者の脳裏をかすめる「許し」の一語には、倫理的な叙情さえ漂っている。  叙情は、これまでの和田の戯曲ではタブーだった。が、『蓮の花』に至って、新たな叙情の展開を見せる。しかも、〈濡れた叙情〉ではなく、あくまで不条理劇の根幹に見合った〈乾いた叙情〉という形で。演劇にも詩が必要である。不条理劇は叙情を廃したところに新機軸が生まれたが、さりとて詩と無縁に存在できるはずはない。何となれば、それはどんなに反抗と否定を繰り返しても、所詮、観客の前で演じるという行為によってしか人の心に訴えることはできないからだ。  せりふの流暢さにも触れておかねばならない。初めて和田の戯曲に接したとき、せりふの流麗さに舌を巻いた。文字どおり流れるような名調子の美文が噴出する。少し美しすぎるのではないかという疑念さえ持った。饒舌、必ずしも悪いことではない。不条理劇では場面や状況設定に特異性があり、せりふはむしろ後景に退き、寡黙の中から立ち上がったアフォリズムのような呟きに深い象徴性が潜むのだが、和田の作品はせりふが美しすぎて、逆に足をすくわれる危険性があった。それが、今回の『蓮の花』ではみごとに払拭されて、沈黙という間合いが絶 妙の効果をあげている。ここにも〈間合い〉と〈空白〉を大事にする日本文化の伝統が顔をのぞかせている。  『蓮の花』は、和田の演劇活動に一つの転機をもたらすことは間違いないだろう。

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