小川伸介の「圧殺の森」製作以来の付き合いである。三十年前の話だ。こちらは大学生中心の制作集団に紛れ込んだトウのたった演出部見習、氏はどこかの大学の新聞部のキャップかなにかで威張っていた。なぜ威張っていたかというと、「圧殺の森」は各大学の新聞部の隠し金やカンパをそうとう当てにして日々カメラを回していたのだ。当時の「学新」キャップどれくらい威張っていたかというと、部室にお金をせびりに行くとキャップ(むろん氏ではない)が机の向こうから「アジア・アフリカの情勢について、展望を述べてみろ!」と言う。こちらが「展望」を述べると、「異議なし!」と言って、お金をくれる仕組みなのだ。氏がお目付け役の若年寄みたいな顔をして高崎のキャンバスに現れては映画演劇論をブッテいたのを覚えている。現在は映画作家(監督・作家)と役者の付き合いである。相変わらず威張られている。あい変らず貧乏なくせに金離れがいいから、最近ではファスビンダーの「ベルリン・アレクサンダー広場」14巻を日本に持ち込む公開委員会をまるごと請け負って実現し、大損をコイタ。(和田)
微熱の世を凍らせる激辛のカレーを(和田周の新作に)
(1999年12月)「微熱図鑑」パンフより
近代俳句のようには、決して完結しない連句11関係性の表出をテンに、あるいはメタ連句を軸に、自明の意味性を徹底的な無化を目指す和田周の力業。世界の意味性とは関係の制度化そのものに他ならない。この制度化された関係性を異化する試み。周の新作には、様々な仕掛けがちりばめられている。
周はこれまで、固定化された関係性、即ち、強はった私たちの身体性をズラし、異化し、その関係性をまったく別の時空の中に解き放って見せてくれた。池袋から渋谷へと転戦を重ねながら、周たちは私たちが気づかずに取り込まれた完結した世界のグロテスクを、日常のどこにでもある言葉や所作を一寸ズラすことを通して垣間見せてくれた。周たちの方法には、真の喜劇があるのだ。
そして今回、『微熱図鑑』だ。戯曲を読んだにすぎないが、この快作がどんな舞台となって出現するか、私は今からワクワクしながら待っている。
一九九九年末-空虚な雄弁のみが横行する〈今〉にあって、周たちの舞台は、その雄弁に巻き込まれつつある私たちの言葉と振る舞いを白日の下に晒し、更に自明の如く語られる現在の雄弁を無化する困難な試みとしてあるだろう。そして、この試みに観客である私たちも加わることが出来るのか。このことは、ひとえに私たち自身に関わっている。周たちの舞台では、決して大声で語られることも、大言壮語が吐かれることもない。むしろどこにでもある風景と、どこにでもある関係性と日常の言葉があるだけだ。しかしそれらの一切が一瞬のうちに異化される時、この世界のグロテスクさは、決定的に私たちに突きつけられる。
「あの人」とは誰なのか。そして「あの人」をあの人たらしめる使徒たちとは誰か。私たちか、そして……。《お前の敵はお前だ》。ともあれ、意味のグロテスクな帝国を徹底的に異化する周たちの仕掛けを待ちたいと思う。
世界を凍らせる舞台を!