杉山正樹氏には、いただいたお言葉どおり、十二年まえの「長靴三銃士」から見守って頂いている。そのたびにどれほどつよい励ましのお言葉を頂いたことか。「寺山修司論を書こうと思っているのだけど」と、小さな声で言われたのは四年ほど前の文芸坐の喫茶店だったろうか。僕はその時まで迂闊にも、寺山や岡井隆・塚本邦雄らとともに「前衛短歌運動」を推進した名編集者が目の前の杉山氏であることに、気がついていなかった。約束の寺山修司論「寺山修司・遊戯の人」は昨年の秋、新潮社より上梓され、AICT(国際演劇評論家協会)の演劇評論賞と新田次郎賞を受賞。スリリングな修司論である。優れた評論は一気呵成に否応なしにスリリングなのだというのが僕の持論である。(和田)
「夜の樹」の下で (2001年11月)2001年「真後への帰郷」パンフより
この奇妙なおもしろさを、いったい何にたとえたらいいのだろう。「夜の樹」の公演を観るたびにそうおもいながら、いまだに、適切な答えが見つけられないでいます。 池袋の文芸坐ル・ピリエで『長靴三銃士』(一九八九)を観たのが最初で、地下の六本の柱を活用した舞台は素のまま、しかも照明が暗かっただけに、なんだか胎内めぐりでもしているみたいな、不思議な体験をしたのでした。時間もなければ空間もない、宙づりになって闇にただよいながら、とてもあたたかな波につつまれてる感じ。このまま、もうすこしここに座っていたいな。ハネたあとそんな気のする芝居は、めったにあるものではなく、まるで、自分がみたのは夢で、夢が跡かたなく消えたとき、自分もまた一緒に消失してしまったような感じ、とでもいえばいいのか。
それが和田周の作劇法のせいだと知ったのは、戯曲集で『蠅取り紙』を読んだときでした。このドラマは歌仙とまったくおなじ三十六景の構成で、前場で残った人物が、そのままの姿で次の場の別人に変身するというくりかえしを原則に、およそ予測もつかぬ世界がつぎつぎと展開してゆく。観客はジェットコースターに乗せられたように、切り変わる風景をただ茫然と体験する仕掛けで、なるほど、夢のかたちに似ているわけですね。
しかも、情景が一変するたびに、人物は前後でズレを引き起こすから、笑いがこみあげてくる。ブレヒト流の異化効果というよりは脱臼、こちらが思い入れをしようと身がまえるたびにつんのめって、おのが無様さを笑うほかない。これって、なんだか「生」そのものの滑稽さにも通じるじゃないか、という印象があとあとまで残るのです。
いやいや、そんな単純な構造ではないのだぞ、これは解体の劇であり、物語を喪失した現代人の実像を、分裂した形態それ自体によって提示する不条理劇だ、世にも切実な自意識のドラマなのだ、という声が耳の中から聴こえてくるし、そうにちがいはないのだけど、この際むしろ、むやみに逸脱してゆくおもしろさや、予定調和や因果律を軽く足蹴にする反骨の連想ゲームのおかしさを、あえて強調したい気がする。アクロイド殺しも、『桜の園』も、小栗判官も宮澤賢治も吸血鬼も長靴三銃士も、あるいは多重世界も最後の晩餐も七つの大罪も蕩児の帰還も、ひとたび和田周の劇中に引用されたが最後、とんでもない放物線をえがいて飛んでゆくからです。
もっとも、こっちがいくら能天気でも、どの作品にも共通する、一種沈痛な基調低音に気づかぬわけではありません。それこそ、作者が「生」の深みから発した声であり、私的な告白ではなく、劇的表現へと昇華してゆく苦心が推察できぬでもない。現に作者は、父親の生涯を要約してこう書いているのです。
《思うに、人は、あらゆる状況のなかで、あらゆる他者のまえで、結局は彼らしくなくふるまい、彼らしくない言葉をはき、そして、彼らしくないエピソードを残して、ある日、それまで密かに脈々とつづいた見かけとは裏腹の思考をふと中断して、息を引きとるのではないだろうか。常にそのものらしさに迫ろうとして、土壇場でとほうもなくはぐれてしまう、そういった救いようのない生きざまの坐りのわるい感覚に生涯つきまとわれた末に》(『大坪砂男全集 ‡T』月T』月報)
父の大坪砂男は、敗戦直後、推理小説の世界で颯爽とデビューし、山田風太郎と比べられるほどにも奇想と才筆で鳴らした作家でした。『天狗』『私刑』『零人』をはじめ、後世に伝えられる秀作をいくつも書きながら、疾風のように駈けぬけ、やがて市井に身をひそめることになります。《新宿周辺の水商売アパートで》十八歳から二五歳までの七年間を《すでに社会的に葬られた》父と暮らしていた若い和田周が、どんな眼と風貌をもち、現世をいかに見据えるようになったか。この回想文の一節は、あるいは和田周の戯曲のどの台詞にもまさって、かれ自身の本音がこぼれ出ているような気がします。《常にそのものらしさに迫ろうと》しながら《土壇場でとほうもなくはぐれて》しまう《坐りのわるい感覚》。否応なしに背負わされてしまったそんな厄介な「生」の感覚を、跳ねかえし、睨み据え、やがてにやりと微笑みながら、歌仙を巻いてゆく。そして、多年にわたる遊戯をくりかえした挙句、あの軽みの佳作『引き潮の時間』や、現実を深部でとらえてみせた秀作『微熱図鑑』が結実したのでしょう。
さながら、自分の姿を前後左右から同時に眺め、死の側から現世をふりかえり、此岸と彼岸とが入れ子構造になって錯綜し、過去と未来と現在とが渾然一体となって進行する世にも奇妙な連歌興行は、じつは、その気になれば、いつでもだれでも参加できる、開かれた「座」なのです。ひとつ、一座に加わって、遠い未知の場所まで遊びに行ってみましょうか。ほら、こんどの『真後への帰郷』冒頭の、水野さんの台詞が聴こえてくる。
水野さん そのとき、ふと、〈ああ、これは夢なん だ。ぼくはいま夢のなかで、あなたに会っている んだな〉って、はっきり気がつくことって、ある でしょう。
奥さん 夢のなかで?
水野さん ええ、夢のなかで。
池袋のル・ピリエから渋谷のジァンジァンへ、そして東京芸術劇場の小劇場へと、場所を変えるたびに「夜の樹」が高く(でも本質的にはちっとも変わることなく)育ってゆくのを、ひとりの観客として楽しませていただきました。さて、ことしはいつもの面々が、どんなお芝居を見せてくれるか。田部誠二は、古山桂治は、大谷草平は、香川美和は、寺田裕二は、そして瀬畑奈津子は……と、俳優たちの懐かしい顔を順々におもいうかべながら、阿佐ヶ谷のザムザでの「変身」が、今から待たれてなりません。