演劇組織「夜の樹」って?
俳優の集団です

●ある時、二人芝居を創ろうと、二人の俳優が思い立って、俳優二人だけの集団を作りました。そしてそのうちの一人が《ル・ピリエで上演されるテネシー・ウイリアムズ作「話してくれ雨のように・・・」に俳優たちがつけ加えた二つの場》というながたらしい副題のついた戯曲を書きました。それが「夜の樹」第一回旗揚げ公演「キャベツ畑の中の遠い私の声」です。
●そしてその「夜の樹」に、「こんな芝居を創りたいね」「あんな芝居はしたくないね」という、なんとなくおなじ好みの、というか、おなじ志の俳優が三々五々集まってきて、いつのまにか十数人の集団が、年一回の定期公演を持続して、今年で23回を迎えます。
●バラバラに集まって来たので、年齢層も20代から70代まで、バラバラです。
●20本の戯曲も、演出も、ずっと「キャベツ畑」の書き手の俳優が受け持ってきました。ですから、彼が俳優として出演する場は、つい芝居がおろそかになります。
●それでも専門の作家や演出家に頼らないできたのは、「とりあえず、俳優の舞台感覚だけをたよりに、俳優だけでワイワイ言いながら、(ゲリラ感覚で)出来るとこまでやってみよう」と、わりと頑固に決心したからです。
●「だって、劇場の最前線で観客と遭遇するのは俳優なのだから」
●「一人の個性とセンスで作るより、出演俳優の数だけの個性とセンスで作ったほうが贅沢だヨ」
●というのが暗黙のコンセプトです。
●実際に、この頃ではすこし理想に近づいて、その場その場、役者と演出のパートを取り替えて「ワイワイ」いいながら芝居が作れるようになりました。(俳優って、人のアラは人一倍見えるくせに、自分のことではすぐに目が点になってしまうので、つい「オメェーには言われたくネーヨ」状態に稽古場がなります。それを乗り越えたということは、そうとうエライのですヨ)
どんな芝居?
●「世直し芝居」よりは、「世迷い芝居」を!
●「お墨付きの名演技」よりは「札付きの迷演技」を!
●と、仲間内では怪気炎をあげてますが、傍目には、ずいぶんながいこと(ほんのこないだまで)、「夜の樹のお芝居ってムツカシイ。(一部の素敵な劇評以外は)」と、簡単に片付けられてきました。
●たしかに「ごめんなさい」と謝りたくなるほどムツカシイ芝居を作ちゃったりもしました。ハハ
●でも、真っ当な思想にもとづいた「教化劇」や、「ああ、世の中って本当はこうだったんだ!」みたいな無邪気なテーマ芝居は死んでも作りたくない!
●と、いう思いが強すぎて、つい、世の中や、自分の中の暗がりを覗き込むような、ただ息を呑んで覗き込んで、自分達も、観客もますます迷子になってしまうような芝居ばかり作ってしまったのです。(そんな「夜の樹の芝居」をずーと見つづけて「いいよ、ガンバレ!」と言ってくれる優しい人達もいるのですケドネ)
●「死」とか「夢」とか「記憶」といったような、答えのない、輪郭のあやふやな、暗がりの濃いテーマばかりを、つい、芝居にしてしまうのです。(死『引き潮の時間』『テーブルの上の暗闇』・夢『真後への帰郷』・記憶『キャベツ畑の中の遠い私の声』『今朝の雪』など)
●でも、そういう不確かなテーマを誠実を売り物に追求するような、クソ真面目さを劇場に持ち込みたくない。(誠実とか真面目さは、柔らかな生命や感性の敵だから!)
●しなやかな、醒めた感覚で「暗がり」を覗き込みたい!
●そのためには、情緒・情念どっぷりの「悲劇」よりは、こわばりを笑い飛ばす、(どこか)醒めた「喜劇」を!
●近代的な権威主義や、「いざとなったら人をも殺しかねない硬直した生真面目さ」を目の敵にして、観客と一緒に劇場で(すこしばかり自堕落に)ケラケラ笑いたい!
●もう二度と、誰からも「夜の樹の芝居ってムツカシイ」なんて言わせないゾ!
●そんな、「オカシナ(怪しい)芝居」を作りたいゾ!
夜の樹って料理
和田のつくった作品(素材)をみんなで調理して、お客さまに食してほしい。
出された料理はそのまま食べてもいいし、しょうゆをかけてもいい。 もちろんマヨネーズにつけたっていいし、ナンプラーなんていかが? フォークで食べてもいいし、箸で食べてもよし。手づかみだっていいよ。だまって味わってもいいし、おしゃべりを楽しみながら食べるのもあり。
夜の樹には、料理上手が多い(食べるのもそうとう好き)。
ただし・・・、ときどき消化不良を起こす人がいることも否定できないけどね。
(玉井亜子)
「夜の樹」って?
私の父が4年前に亡くなりました。
私が「夜の樹」に10年来関わっているので、「夜の樹」から花輪を出して貰いました。 「兄弟より」「親戚一同より」の横に「夜の樹より」という花輪が並びました。
私は、私の個人的理由により職場(昼間は正社員として働いています)及び親戚一同に、 私が演劇集団「夜の樹」で、芝居を演っていることは内緒にしていました。 ですから、焼香に来ていただいた職場や親戚の叔父、叔母には、「夜の樹より」の花輪が、 よほどその場で浮いて見えた様で「おまえ夜、飲み屋でバイトでもしているのか?」 「どこの店の女の子に入れあげているんだ?」挙げ句の果てには「おまえホストクラブででも働いているのか?」 等々質問され、私も、いちいち葬式の場で説明するのも変だし、説明したところで相手も逆に返答に困るだろうと思い、 また、面倒だし内緒にしていた手前「まぁ飲み屋みたいなところだよ」と曖昧に答えておりました。
が、ふと私自身疑問に思い「夜の樹って?」と自問自答したところ、「う〜ん・・・。」ヤバァ、解んない。
以前酒の席で悪友に、「おまえは、働きながら尚かつ芝居を演っていて偉い=夢があって羨ましい」 と言われたことがあり、そのことを思い出し、考えたところ。
客観的に私を見た場合「昼間は日常生活者として普通に働き、夜な夜な夢想に向かって進んでいる」 ということになるのか。
夢と現が地繋がりになっていて・・・。
そこに行くと、何かがアリソデ、ナサソデ・・・。
1度行くと何となく癖になってしまい・・・。
かと言ってそんなに凄くもないし・・・。
なんだ「夜の樹」って飲み屋やクラブみたいな所か。しかも明瞭会計前金制の有料店。
「安心して遊んで行って下さい社長」
(大谷草平 VERSION1)
ラーメンは好きですか?

私は大好きです。
ラーメンブームの昨今あなたはおいしいラーメン店をどうやって見分けますか?
店名ですか?きれいな店構えですか?ノンノンノン
答えは簡単。
少し裏路地にある、へんてこな店名の、間口の狭い、ちょっと古めの、だけど、そんなラーメン屋が出す何気ない醤油ラーメンが、 どんなに行列が出来る店より「う〜んまい」と玄人までも唸らせてしまう、ラーメンの中のラーメンを出すと、 昔から相場は決まっています。
もうお分かりでしょう、その店こそ「夜の樹」なのです。
ラーメン好きのあなたなら、店選びで苦い経験をしたことがあるでしょう
子供だましで、しつこい豚骨背油スープの店
夜の樹はシンプル醤油。
トッピング勝負で、麺が全くダメな店
夜の樹はメンマ、チャーシュー1枚、ナルト、ネギ、のり1枚のみ。
店名で勝負<○○の店>
何て言ったって店名は「夜の樹」ですから。
あなただけが知っている、まだ雑誌にも載っていない秘密のラーメン屋を、まさに、今あなたは見つけてしまいました。 何という幸せ者。何も言わず1度食して見なさい。うちの味が忘れられなくなりますよ。ムフ。
(大谷草平 VERSION2)
冬のナラの林を見たことがあるだろうか

手前のものは一本一本が複雑に枝を伸ばし、幹の模様もくっきりと美しい。 それぞれがきっちりと生を保っている姿。それがどうだ、視線を遥かにしていくにつれて、 次第に木々の輪郭がぼやけていき、終いには、山全体が紫色に煙って輝きさえ帯びてくる。
以上は7年前、「夜の樹」の舞台を初めて見たときの私の感想。残念ながら私はいま、 樹海の中をさまよっている。早くこの中から飛び立って、はるか上空から、 いま一度あの紫色を眺めてみたいものである。「夜の樹」のネーミングとは全く関係ない。
(藤原素子)
私たちは
私たちの集団のことを、たとえば文化庁に助成金を要請するドキュメントなどに、あらたまって、こんな硬い言葉で説明しています。
「私たちは作・演出者もふくめて俳優の集団です。六ヶ月のワークショップと公演のための六ヶ月の稽古を通して、「近代俳優術」を乗り越えた今日の演技とはどのようなものかを探しています。そのために、スタニスラフスキーの言う「提案された状況」を忠実に表現するためだけの、意味と物語を客席に垂れ流すためだけの、道具としての演技術を疑いながら、それにはどのような戯曲と舞台上の表現が可能かを、年一本の創作劇の上演によって問いつづけていきたいと思います。」
もちろん本音ですが、四六時ちゅうこんな建て前っぽい掛け声や観念論をいじくりまわして稽古をしたり、舞台に立っているわけではありません。むしろ、ほとんど芝居屋の勘(かん)だけをたよりに、どうしたらお客様に喜んでもらえる芝居をつくれるかという、さしあたっての工夫だけに、目いっぱいです。
ただ、その「芝居屋の勘」のなかから、「意味」や「物語」を押しつけて観客を教化しようとする古い演劇人の思い上がりだけは取り除こうと、願っていることだけは、確かです。
むかし、「こんどの公演でレーニンを演じている名優○○の演技は最高だ。なにしろ歩き方までレーニンそのものなのだから。」という評判を聞いて、思ったのです。(「歩き方までレーニンそっくりの演技」ってなんだ? レーニンそのもの! まぎれもないレーニンが舞台に登場して、それでなんになる!)
そしてその時つくづくあこがれたのです。(もし僕がレーニンを演じて舞台に登場するときは、小刻みに、限りなく「レーニン」から遠ざかる足取りで舞台中央に歩いていこう。観客は登場した「レーニン」が、小刻みに限りなく「レーニン」そのものから遠ざかっていくプロセスを目で追うことになる。はじめに「レーニン」という固有名詞があやしくなり、つぎに「レーニン」がおびていたあらかじめの価値やレッテルが意味をなくし、やがて「レーニン」役者の僕の体の輪郭までもが薄れはじめ、ついには、舞台の中央に筒型の暗闇のようなものが佇立(ちょりつ)するだけになる。いまや観客は、その舞台上の筒型の暗がりをただ声もなく覗き込むだけである。そして、観客と一緒に、レーニン役者の僕までもが同時に、僕自身の筒型の暗がりを覗き込むことになる。)
ありうべき舞台をあこがれる俳優というのは、こんな非論理的な、とりとめもない夢想にこづかれながら、てんでんばらばら、稽古場に集まってくるのです。そんな俳優達の、さしあたって14人の集まりが、「夜の樹」です。(和田 周)
